文/武漢市の大法弟子
【明慧日本2012年8月18日】私は初めて協調の仕事を担い、その中で同修との間に隔たりが生じ、トラブルが発生した時に私は如何に修煉者としての自覚を持ち、師父の仰ったことに従って自分の内に向けて探し、最後に自分を正し、修煉において向上したかについて、この場で同修の皆さんに話したいと思います。
一、真の忍を行う
2010年5月1日午前、「現地の協調人がしばらく他の場所に行くので、代わりに私が協調しなければならない」という情報が頭の中に入ってきました。当時、私は全く気にしていませんでした。三日後に私は 地域のグループ学法に参加し学法が終わったところで、協調人が「5月1日に余所で仕事している息子が電話を掛けてきて、私は向こうでしばらく生活することになりました。誰か、私の仕事を代わりにやって下さい」と話しました。私は何も言いませんでしたが、周りの同修の推薦で自然と私が担当することになりました。私は、これが臨時のことで、定期的にグループ学法に参加し、修煉の良い環境を守ろうと認識しました。
しばらくして、元の協調人が帰って来ましたが、私はその協調の仕事を続け、彼女は他のプロジェクトに入りました。しかし、彼女は毎回グループ学法に参加した時に、いつも不愉快なようで早めに帰りました。私も人心をもって他の人に対処し、彼女との付き合いも上手くできず、修煉に対しても重視していなかったため、互いの間に隔たりが生じて、邪悪に隙に乗じられました。
去年の10月初め、私たちは一緒に学法し、その後彼女は協調の事について大いに私に指摘しました。実はこの件について、私は既に自分の過ちを認識しており彼女に繰り返し、事の次第を説明したことがありました。しかし、このように言われるとは思いませんでした。「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと煉功の効果が上がらず、向上につながりません」(『転法輪』)当時の私は魔性が起きて、我慢できず外に出て行きました。
翌日の朝、彼女から電話が来て、同修の救出活動の件で話したいと言われました。私はまた昨日の件ではないかと思いこんで、時間がないと言い訳して電話を切りました。しかし、再び彼女から電話が来て、他の同修に洗脳班の近くで近距離発正念をする呼びかけをしたいと言いました。私は意味をしっかり捉えることができず、そのため深刻な誤解が生じました。このことを知ってから、私は自分のミスを認識してそのことを何度も説明しました。しかし彼女は皆の前で私を指摘し、たくさんの不満を言いました。皆も彼女の話を信じて、全員が私が協調人に不適だと判断しました。
それからグループ学法の後に、もう一人の協調人が私達2人に「お二人は帰ってから、新たに一人の協調人を推薦してください」と言いました。これはすなわち、私がこれから協調チームを抜けなければならないということです。私はすぐに「誰かを推薦する必要はなく、彼女は協調人をしていた時間が長いので、彼女が協調人に適任であり、私は辞退します」と、態度を表明しました。しかし、彼女はまた皆の前で私のことを批判し、まるで批判闘争大会のように、大いに私を指摘しました。すべて私が悪く、彼女には問題がないような発言ばかりでした。最後に、グループ学法の場所の鍵を差し出すように強いられて、私は立場がなくなって、とても耐え難いと感じ、泣きそうになりながら黙ってその場を去りました。
家に戻ってから、私の心はもう限界になりました。私は裕福な家庭環境で育って、結婚後は主人にも優しくしてもらい、仕事は市役所なので、30年来ずっと和気あいあいの環境で過ごしてきました。このように辱められたことは初めてのことだと、いろいろ考えて涙がぽろぽろ落ちました。
心の中では不平に思い、同修に怨念を覚えました。なぜ同修は私と交流せずに単独に決めるのでしょうと思いつつ、自分の愚痴をこぼすこともできず(同修から指摘されたくない心理のため)、本当に心がえぐられるかのようでした。最後に、信頼できる同修に自分の心境を語り、この同修から早くこのトラブル中から抜け出しなさいと言われました。
それから私は静かに考えて、修煉者としては寛容、忍耐、慈悲の心が必須であり、内に向けて探すべきだと思いました。師父の『北米第一回法会での説法』の一部を書き写したことがあったので、もう一度探し出してみました。「もし修煉者が表面では放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つかれないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です! 自分の心が動じなければ、少しも向上することができず、これは自らを騙しているのです。真に内心から向上することだけが、本当の向上なのです」を読んでから、私は師父の真の弟子になりたいと念を発しました。三回読んでから、私は心性も向上したような気がしました。心の容量が拡大しており、涙もなくなり、怨念も消えました。自分自身がいつも他人を警戒し、自分を傷つけられないような心が現れる度に、師父の説法が頭の中に入ってきました。するとその場で良くない念が無くなり、私の心も穏やかになりました。
しばらくして、ある同修を救出しなけらばならない時に、もう一人の協調人と連絡が取れず、どうにも電話が通じませんでした。これは正に師父の按排だろうと思い、私が修煉者のように寛容をやり遂げることができるかどうかを見られていると考えて、私は積極的に彼女に電話して、相談をしました。
それから彼女は自ら私に謝って、申し訳ないと言いました。私はやさしく彼女を慰めて、彼女の気がかりを打ち消しました。互いの隔たりがなくなり、それから協力の中で、私達は一つの全体になりました。最後に労働教養を科された同修はみごとに外に出られました。
もし法理に従って問題を見て、そして大法をもって自分を正さなければ、私はもしかしたら、この難関の中に沈んでしまったかもしれないと、いつも私はそう思っています。
二、嫉妬心を無くす
今年の正月、私はまた彼女との間に隔たりが生じました。本来相談したいことが2件あったのですが、ずっと返事をしてくれず、私はずっと心の中で放下できませんでした。正月のある日、私は一人で『転法輪』を読みました。中に、「皆さんに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです。常人(じょうじん)の社会において、人々は奪い合ったり、騙し合ったり、個人のわずかな利益のために人を傷つけたりしますが、こういった心は全部捨てなければなりません。特に、今ここで法輪功(ファルンゴン)を習っている人は、なおさら 捨てなければなりません」とあり、私は目が覚めました。続けて内に向けて探し、根源が分かったなら、それを無くさなければならないと思いました。
一体何が原因で隔たりが生じたのでしょうか、なぜ何かに遭ったらすぐに心がバランスを取れないのだろうか? と色々考えて、急に「他人に良いことがあったら、その人のために喜ぶどころか、自分の心のバランスがとれなくなります」(『転法輪』)と、嫉妬心の法理を思い出しました。豁然と私は分かりました。すべては自分の嫉妬心から生じたものでした。同修の自分に対する態度のいかんに関わらず、協調の中で不足があっても自分が協力をしないことはいけませんし、かならず無条件に圓容し、不足を補わなければなりません。それからグループ学法の中で、私は心を開いて自分の体験を話し、お互いの観念も無くなりました。こうして、私たちの地区の同修が三つの事をする中で、協力すればするほど上手くいくようになりました。
まさに師父が『大法弟子とは何か』中で説かれたように、「お互いに協力し合うとき、人心があるから摩擦が生じるのであって、それは修煉者の状態であり、過程です。決して誰それが本当に良くないのではありません。良くできた部分はすでに見ることができず、隔離され、皆さんが見たのは永遠に修煉がまだできていない部分です。しかし、皆さんは慈悲心を持つべきであり、変わらない目で相手を見てはいけません。私は再三に、良くできた部分を皆さんは見ることができず、その部分はすでに非常に良くなり、基準に達したと言っています。基準に達した部分はどういう状況でしょうか? 神の基準です。良くできていない部分は表面に進めば進むほど、ますます悪くなりますが、彼の修煉はすでに良くできています。皆さんが自分自身や相手、そしてこの環境を大切にするよう望んでいます。歩んできた道を大切にするのはつまり、あなた自身を大切にしているのです」ということです。
私はここで、自分が師父の弟子であることを幸せに思い、師父に感謝いたします。これからは師父の真の弟子として、最後まで弛まず修煉し、修煉環境を大切にして、師父が法を正すことを助けて自分の使命を果たします。