仕事の中で修め、職場で法を実証する
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2012年10月15日】私は職場の中での修煉状況を師父にご報告し、同時に同修と交流できればと思います。

 私は幼い頃から自己中心的な性格で、自分が一番だと思い、学生時代の成績も良くて就職してからも順風満帆だったため、悪い観念が一層拡大されました。職場では誰をも気に食わず、上司のやり方についていつもああだこうだと指摘し、自分はまじめに仕事をしているものの、自分のこの遠慮のない態度が原因で皆に嫌われました。こうしてたくさんの妨害があって、上司との人間関係も悪くて、上司から混乱して業績の悪い部門の仕事をするよう命じられました。

 近年、この状態は法を実証することを大いに妨害していると認識しました。それから自己中心的な心を無くすように努力しました。最初はどうやって修めるのかすらわからず、単に人に対して謙虚な態度で、人と争わず、語気を優しくし、上司の命令に対して無条件に従おうとしていました。こうして、表面上では和気あいあいですが、内心ではずっと困惑していて、何かに遭ったら不平に思うことに気づきました。表面上では落ち着いていても、心は動揺し、行動上で悪いことをしなくても心性の尺度は向上していませんでした。

 このことが分かってから私は、しっかり心を修めると決心しました。まず、人の不足と欠点に対する観念を変えました。以前なら、誰かの不足を見るとすぐに煩わしく思いました。もし私が相手を「もう救いようがない」と判断したら、本当にずっとこの人を相手にしなくなりました。今の私は、法に従ってみれば各次元の生命はもともと各自の特長があり、誰にも不足がありますし、正負の生命が同時に存在するものだと分かりました。完ぺきな人はおらず、欠点も大小の差があるだけで誰にもあり、過ちとは言えません。師父は「一人の人間として、宇宙の真・善・忍の特性に順応できる人だけが本当に良い人で、この特性に背く人が、本当に悪い人です」(『転法輪』)とおっしゃったので、照らしあわせてみるとびっくりしました。私はこれほど修煉してきましたが、真の良い人の基準にすら達していませんでした。いつも自分の事ばかり主張して、ひたすら人を変えようとしました。人の不足を見て、慈悲に包容することができず、いつも自分がすごいと実証したくて、他人を助けて全体に対して圓容する心が足りませんでした。これは善とも言えないし忍もありません。

 さらに私は自分の基準を唯一の正しい基準として人を律しないようにしました。「異なる次元に異なる法があり、異なる空間に異なる法があります」(『転法輪』)宇宙はこのために豊富であり、多彩になるわけです。常人の境地は修煉者と比べるべくもありません。私が修煉者の基準をもって常人を測ると、私は嫌悪して心の雑念を排除できなくなります,もし私が修煉者の基準で常人に要求すると、常人は苦を感じて私に怨念を生じます。 これは真の善ではなく、相手も善を感じません。本当に相手の立場に立って理解してあげて、真に自分の損得を放下して始めて、純粋な付加条件のない善と言えます。

 もう一つのことですが、私は修煉者としていかなることに遭っても内に向けて探し、外に向けて求めることはできません。いかなるトラブルも自分の修煉の良い機会です。もし、他人が自分の基準に符合したら嬉しく感じ、符合しなければ嫌がるならば、これは自分の基準をもって人を測り、外に向けて探すことです。同時に、自分の内に向けて、大法の基準をもって自分を変えて、人を変えようとしないようにします。いつも人の事ばかり見ていては、それでは修煉できないのです。私は「誰かがああだこうだ」と考えていることに気づいたら、すぐにこの良くない思想業力を排除するようにいつも注意しています。

 上記の三点をよく考えてから、私も自分が地味になったと感じました。オフィスの中で、めったに喋らず、上司に言われたことに対して文句無く真剣に受け取って、まじめに取り組みます。たまに上司の不足を見つけたら、私は単独で上司と交流します。上司が自分の意見を堅持する場合、私はそれを黙々と補います。上司と同僚の間に誤解があるとき、私はそれを淡々と見て、あまり流されず、人を傷つけないようにし、自分から怨念を生じないようにします。仕事をしっかり行い、朝早く出勤して遅く帰ります。

 しばらくして、私の業績はますますよくなって、総合評価トップになりました。上司もよく私のことを褒めて、皆に私を見習うようにと言いました。

 ここまで書いて、私は自分の不足を見つけました。それは真に無私無我の境地に達しておらず、同僚に対して理解が足りないことです。表面上、私は仕事をしっかりしていますが、内面では同僚たちが勤務を怠ったことに腹が立ちました。いつも私が完成させたものをそのまま使って、当たり前のように思って私を手伝わないことがよく気になります。実はよく考えてみると、常人の生活は皆苦しいものだと思いました。金に目が眩んで悩み、情に苦み、名を求めて疲れ、業力に包まれて病気だらけ、人々はお互いを敵視するなど、本当に苦しみの中に浸っています。一方、私は修煉者として、体が軽くて頭も良くなり、執着なく悩みもありません。私と常人を一緒に比べていいのでしょうか。常人ができないことも当たり前です。しかし私は損得に心が動じました。人の安逸に対して嫉妬しており、時には人に追い越されることを恐れています。この嫉妬心こそ、今日から真剣になくして、真に純粋な心を持ち、私(し)を無くして、たとえ清掃の仕事をするとしても修煉者のように行いたいと思います。

 師父の慈悲なる済度に感謝いたします! これからは、もっとしっかり自分を修め、師父をご安心させられるように努力いたします!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/9/18/262905.html)
 
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