文/中国大法弟子
【明慧日本2012年10月22日】今日、通勤の途中で真相資料をついでに配ろうと思いました。先日、ある場所で警察の制服を着た人がずっと私を見つめていたため、今日はその場所を通らず他の道を選択しようと思いました。この念が起きてから、この考えは実は恐怖心と疑心であると認識しました。続けて、なぜ疑心や恐怖心が宇宙の特性に背くのだろうか? と考えると、真という文字が頭の中に入ってきました。疑心と恐怖心はともに、真理への信念が足りず、真を固く守れないため、動揺したのではないかと突然悟りました。
師父の初期の説法を思い出しました。「動揺する心も一種の安定になっていない執着であり、執着心です。」(『北京法輪大法輔導員会議での提案』)
宇宙の中の生命はただ「善、忍」だけに符合しても足りません。自らの“本性”にとって“真を守る”ことは、外来の邪悪や異物、低次元の要素に左右されないことであり、これも生命の存在の根底です。今日の修煉では、必ずこの方面での試練が出てくると思います。つまり一つの生命は真理への堅持、信への堅持、外部に惑わされず、真の自我以外の執着と観念に動揺されないこと、このすべては真を探求することです。
私の心は急に明るくなりました。人間および低次元のすべては真とは言えず、ただ自己の執着(私心と自己保護のために生じた恐怖、疑心)が、次第に人に真実のように感じさせて迷わせます。もし自分の執着を自分だと認識してしまうと、これも真を修めるとは言えません。後天の観念、執着をぶち破ってから初めて、本性の自我に返本帰真できます。
「宇宙の特性が一切を制約しているからです」(『精進要旨』「善を説く」)と、師父の説法も同様に弟子に対して本性を堅持し、先天の真へ帰すということを説かれていると私は思います。以前の私は、まず執着と観念は自分ではないと分かったのですが、しかしこれほど深刻には認識していませんでした。これこそ宇宙の「真、善、忍」、大法へ同化することを阻止していた真の障害であり、これを無くす過程は自分の未来の生命が存続する基礎になります。虚像を現実だと認識してしまい、後天の観念を自我として、自分の言動がこれらのことに左右されるならば「真」を修めることができません。
実は修煉上で出遭ったすべての阻害、魔難、業力および他の妨害のすべては、自分が作ったものです。執着と誤った観念と認識により、もたらされたものです。そして、これらの観念と執着はまさに、修煉の中で無くすべきものです。真にこれらの観念、変異したものから解脱して、師父が法を正すことについていき、真に先天の生命の本源の中の不足を補うことができたら、それは宇宙の特性に同化することになります。そうすると、自分自身も宇宙の真理に同化に、永遠に不壊になります。
一瞬、私は思想の中に存在している雑念を排除し、師父の言うことしか従わず、師父が言われた三つのことをすると思ったら、心の中はすぐに安定し落ち着いて、動揺と恐れを排除しました。私は歩きながら自分の良くない思想や、他空間の要素を駆除して、ちっとも動揺せずに真相資料を配りました。
当然、学法を通じて「真、善、忍」の法理が円容であることを分かりましたので、上記の悟りはただの個人的な次元での悟りです。しかも、「真」への体験だけにとどまっているので、断片的であって強調するつもりはありません。妥当ではないところをご指摘してください。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/10/16/135876.html)