嫉妬心を取り除こう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年11月5日】今日、学法の際、「嫉妬心」の節にあるこの部分が目に留まりました。「常人にはこの理が分かりませんので、自分にふさわしいことをやらせて貰うべきだといつも思っています。」(『転法輪』)「ふさわしい」という文字を見て私は突然、自分の嫉妬心の根源がここにあるのが分かりました。以前、自分は嫉妬心がないと思っていました。何故なら、私は自分より学歴が高く、能力のある人を嫉妬しておらず、自分より貧しく、困窮にいる人を助けたりもしました。しかし、私は自分にふさわしいものを得るべきだと思い、自分と同条件にいる人たちにだけは嫉妬していました。

 私の大学同期の多くは安定した仕事に就いていますが、私は迫害によって仕事を失いました。しかし大学在学中、私は割と優秀だったので、これを思えば、いつも念頭にあるのは、「私の諸条件は貴方達より良いので、もしこの迫害がなければ、私は…。」という考えです。自分と大差のない昔の女友達が今、嫁に行って幸せに暮らしているのを見て、私が思うのは、「私は貴方よりずっときれいで、昔、私を好きになった人達のどの人を選んでいたとしても…。」私と同年齢で、同条件にいる金持ちの同修を見て、私が思うのは、「私はどの方面でも貴方より優れていて、しかしこの迫害によって全てが失われました」私は自分の学歴、諸条件、外見から、安定した収入を得て、不動産も所有し、人に羨望される対象のはずだと思っていました。しかし、私は自分より良い条件にいる人たち、例えば富豪、社長、権力者などには羨望しませんでした。何故なら、自分の条件では到底それらを手に入れられるはずがないと思っていたからです。実質私が思ったのは、自分の条件で自分にふさわしいものを得るべきということで、自身の条件よりさらに良いものを妄想しませんでした。私の成長過程でもずっとこのように按排されていて、自身の条件で得るべきものを得てきましたし、自分の条件で及ばないものは得られませんでした。私は自分の全てに満足し、現実的で、得るべきものをふさわしく得てきたと思っていました。

 今思えば、自分の成長過程において、旧勢力が私のこの「ふさわしく得たいものを得る」という観念を実践の中で非常に頑固なものにし、これこそが真理だと思うほどでした。それによって、迫害を受けてから私は、各方面でものを失ったことに憤慨し、親友からの嘲笑い、同情そして不可解な態度を前に、私は更に落ち着きを失いました。実質これは嫉妬心でした。今わかったのですが、人間社会で何かを得たとすれば、それは生まれ持った自分の定めにあるからです。もちろん、仕事を失ったのは旧勢力の迫害ですが、しかし、この「自分が得るにふさわしいものを得る」という観念は取り除くべきで、深く掘り下げれば、そこには平均主義の思想がありました。過去は王でさえ天下を勝ち取れば天に感謝しましたが、今の無神論教育を受けてきた人々は、僅かな利益を得ただけで自分自身の功とし、自分の努力によって得たと思い、それが自分にふさわしいと思うようになりました。しかし、それらのすべては実質、他空間の徳と交換されていることが忘れられています。

 以上は個人的な見識で、不適切な部分があれば同修の慈悲なご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/1/264763.html)
 
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