文/天涛
【明慧日本2012年11月8日】数日前の学法の際、私は「いろいろな目的を追求しながら功を学び、大法を学ぼうとしても、何も身につけることはできません。」(『転法輪』)という法の一節を学び、師父がおっしゃっている法理の真の意義が突然分かった気がしました。今日再び、私は第二講の「求めるということの問題」にある「あなたは求める心を抱いて、それのために来ているのですか?」という一節に胸を打たれました。
なぜ私達は法を学んでも法を得られないですか? その理由は、私達は何かを求めようとする目的を持って学法しているからです。例えば健康を得ようとし、智恵を得ようとし、天目を得ようとし、功能や円満成就を得ようとするなど、様々な心を持って学法をすれば何も得られません。私達がすべきなのは、「真、善、忍」の常人の次元における要求に従って、良い人として、苦労に耐え業を滅することに努める事だけです。
三つのことを実行する過程で、私達は往々にして求める人心を持って行っています。学法の際、法を得ること、次元が高まること、そして昇華することを求め;発正念の際、悪を滅することを求め、真相を伝える際、威徳を求めています。良い結果が見えてこない時には自信を無くし、怠惰に陥ってしまいます。結果を強く求める人心を持って、いくら真相を伝えるプロジェクトを行っても、「神から見れば、仕事を行ないましたが、それはいい加減に終わらせたのであって、威徳もなければ修煉にもなりませんでした。」(『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』)
去年、当地のある同修が不法に連行された後、裁判所は彼に対して不当に開廷しようとして、私達は彼の弁護をしてもらうために北京から弁護士を招きました。二回の開廷の際、多くの同修は裁判所の周辺に行って発正念を行いましたが、結果として彼は三年の不当判決を受けました。原因を考えてみると、当時私も、この同修本人が法理をはっきり分かっておらず、旧勢力の按排から逃れられなかったと思いました。しかし、今はっきりと分かりました。当時、私達は何回か協調会議を開き、結果を強く求める心があり、求めれば求めるほど結果が得られませんでした。師父が重視されているのは過程であり、過程の中で私達がどれだけの人心を取り除いたのか、どれだけの高次元の法理を得たのか、そしてどれだけ昇華出来たのかです。過程をより良く行えば、結果は自然についてきます。
結果を求めるのは人心です。師父はこうおっしゃいました。「做して求めざれば 常に道中に居る」(『洪吟』「道中」)結果を求めるか否かは人心を除去できるかどうかの問題だけでなく、旧宇宙の理から脱皮し、個人の円満成就を目的とする旧勢力の按排から脱皮できるかどうかの問題になります。何かを求めるというのは、根本的は自分の為という考え、人間の思想の働きであり、私達が向上する過程において、乗り越えなければならない関です。求める心を放下し、そうして初めて、「無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)
不適切な部分があれば、同修の慈悲なご指摘をお願いします。