名を求める心を徹底的に取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年11月19日】「名声に執着するならば、有為の邪法で、もし世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します」(『精進要旨』「戒める者の忌」)と、師父はとっくに説いておられます。最近の私は、名を追及する心が膨らんで、法を正す修煉の道をひどく阻害していると気付きました。

 修煉する前からも、私は名を重んじてメンツばかりを守るタイプでした。修煉してから少し変化しましたが、根本のところでは、やはりこの心を無くしていませんでした。人間社会での表れは以下のようです。人と接する時に情を重んじて、たとえ自分が損をしたとしても、人から非難されたくありません。表面上の礼儀正しさは人から尊敬されたいためです。人に褒められると嬉しく思い、繰り返し回想して、ずっとその気分の中から抜け出したくありません・・・。

 名を求める心は恐怖心に繋がると私は気付きました。普段、自分の名誉を守るためにいつも、人に迷惑をかけるのではないか、人に誤解されるのではないか・・・などの考えがあります。よく考えると、その背後には名を失いたくないという恐れる心があり、ますます名に執着していることの現れです。

 この名を求める心の由来は何でしょうか? 自分は小さい頃から成績が良かったのですが家庭は貧しく、人に軽蔑されたくない心が強かったのです。両親も家族の将来を私に期待していました。私の性格はとても内向的で、人柄と処世において利口ではなかったため、両親はまだ十代の若い私を大人の基準で教育しました。そうして、私は人と接する方法を会得したものの、自分ではそうしたくない気持ちが強かったのです。しかし、そうしなければならないため、心では苦しく感じて、人と接する機会がなければよいのにと強く思いました。次第に人と接したくなくなり、人と会うと緊張し、恥ずかしくなりました。

 今考えてみると、私の名を求める心は両親の「功を焦って方法を誤る」教育方法と関係があると思います。大人になってから、私は一層虚栄心が芽生え、いつも他人から尊敬されることを渇望していました。しかし、自分が生まれつきこの方面で欠けているため、名のために表面を綺麗に包装しても、内心は脆弱のままでした。

 それなら名を求める心の根本は何でしょうか。これは他でもなく「私」と「我」に執着することだと思います。もっと言うと、自分ばかりを重んじて、さらに周りにも自分のこと重視してもらいたい、自分が抜きんでたいという気持ちです。何かあったらまず自分の名を守り、名のために嬉しく、悲しく思って、実質的には自分の主意識を捨てて、名を求める観念に主宰されたわけです。

 常人の観点から見ても、名を求めることは利よりも虚しいです。利は少なくとも見えるものです。人間の中で名を求めることは、自分に能力がある、自分に才能がある、財産、地位、容姿などが人より優れているという心理的な満足を求めているのです。これらはみな心理的な感覚であり、漠然とした虚しいもので、なおかつ不変なものでもなく、最後には月日とともに流れ去ってしまいます。しかし、常人はこの迷いの中ではっきりと見えません。

 修煉者として更にこの名を見破って、名を修めて無くすべきです。名を守る心は私心であり、他人のためにもならず、一種の嘘にもなります。たとえば誰かによくしてあげるときに、本心からそうしたいのではなく、自分が良い人だと言われたいのが本音で、まったく人を騙す行為になります。これは「真、善、忍」の法理と乖離しています。

 名を求める心を無くさなければ、名を基準にして行動してしまいます。時々、法理に従って行った結果と全く同じように見えるとしても、実際には名のためにやったもので、出発点が違います。一つは自分の名のため、もう一つは能動的に大法に同化することです。一つは普通の常人の現れ、もう一つは修煉者の行いです。一つは私的のため、人に自分を評価されたいのであって、もう一つは無私で、自分の感受に構わず人のためになる行為です。

 法を正す角度から見ると、名を求める心を無くさなければ、法を実証する中でも自我を実証する要素を交えてしまうこともあります。自我を強調して、大法を前に謙虚さを保てず、自我と大法および師父との関係を正しく位置付けできなくなってしまいます。そうすると、修煉者として師父に按排された道を歩むことができず、中途半端に終わってしまいかねません。

 私の悟りですが名は実質上、旧勢力が法を正す時期の大法弟子に掛けた枷です。この枷を外せば、自然と名より派生した各種の執着心も無くなりますし、もっと純粋な心をもって世人を済度することができます。

 コンプレックス、自慢心、虚栄心、歓喜心、顕示心、嫉妬心、闘争心、色心、恐怖心などの人心は、ある程度名を求める心に関係があると私は思います。この名を求める心を樹とすれば、他の人心は枝になります。この木を根こそぎ取り除きさえすれば、他の心もなくなります。

 以上は個人的な悟りであり、ご慈悲にご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/13/65387.html)
 
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