文/屹然
【明慧日本2012年12月28日】
例3。私の友達Bさん(常人)の夫は突然重病に罹って植物人間になりました。多くの親戚、友人、同僚が見舞いに行き、私も行きました。病院で看護する時は、毎日10数回も患者の便器をトイレに持っていかなければなりません。見舞いに行った多くの人は進んで便器の始末をしていますが、私は他の手伝いはしますが、一度も便器の始末はしていません。自分のメンツのために、私に一度でも便器の始末をしてほしい、とBさんの目つきから彼女の気持ちを読むことができましたが、私はそのようにしていません。後日、Bさんは「あなたのやり方を理解できました。大法弟子はみな道徳が高くて良い人なので、私が良い人に便器の始末をさせることは適当ではありません」と言いました。
私はこのように考えています。個人修煉の角度からも、正法修煉の角度からも、大法弟子は常人の便器の始末をするべきではないと思います。昔から、修行を始めたらその人は半分神になるとも言われていますが、神が人の便器の始末をするでしょうか? それは神を冒涜することになるので罪です。ましてや私たちは法輪大法を修煉する人なので、私たちに便器の始末をさせることは、どれだけ大きな罪になるでしょうか? 大法弟子は尊厳があるので、法輪大法の一員としても簡単に尊厳を損なうことはできません。もちろん、自分の家族にそのようにする必要がある時には、かまいません。家族にはそのような責任と義務があるからです。いずれにせよ私たちは現実の中で生活しているので、人間世界の理を守らなければならないからです。
例4。ある同修は長年、し尿汲み取りの仕事をしています。住む場所も会社の中なので、いつも全身に臭気が漂っています。どこに行っても、臭気は彼より先に彼の到来を知らせます。集団学法に参加する時、同修たちはメンツのために、彼の前で鼻を覆うことはしません。彼自身は師父が『転法輪』で「人類社会においてさまざまな職業があるのは当り前です」とおっしゃったことを根拠に、その職業に従事することは何ら不適切ではないと思っています。社長は賃金遅配の手段を使って彼を引き留めています。彼は「それは私の仕事の実績を認めているからです。大法弟子は良い人にならないといけないので、他人のために考えなければなりません」と解釈しています。そのため、彼はずっと長年その仕事をしています。
「良い人になる」というのは、彼のようになることではないと私は思います。良い人とは、頼まれたら何でも承諾するという意味でなくて、大法弟子はし尿汲み取りの仕事をするべきではないと思います。大法弟子の尊厳から見ても、その仕事をするのは良くないと思います。弟子の間では職業のために彼を見下すことをしませんが、常人はきっと見下します。それではどのように向かい合って常人に真相を伝えられるでしょうか? 大法弟子の全体から見ても、更にその仕事をするべきでないと思います。大法弟子が今日している事は、未来の人に参照を残しておくのです。では、彼は後代の人に何を残しますか? どのようにしてし尿汲み取りの労働者になり、どのように悪臭が漂う環境で大法の書籍を読むかを残すのでしょうか? それは佛、道、神、更に師父に対する冒涜ではありませんか? 世の中に職業はたくさんあり、大法弟子がみんな高い階層の職業に従事できるとは限りませんが、少なくとも職業のために世間の人に軽蔑されることは避けたほうが良いと思います。大法弟子の尊厳のためにも、みんなに厳粛に対応してほしいのです。
大法弟子の尊厳について、多くの同修は十分重視しておらず、ひたすら良い人になろうとして、相手に「良い人」と言われれば、自分は多少の損をしてもかまわないと思って、大法弟子の最低限の尊厳を損なうかどうかを考慮していないようです。事実、これらの同修は常人の中でたくさん苦労をしても重視されず、真相を伝える効果もあまり良くありません。大法弟子の優しさを利用してあれこれやらせて、無知のうちに大法弟子の尊厳を侵害する常人がいますが、利用された大法弟子はまだ目が覚めません。例えば、年配の弟子が子や孫のためにすべてを尽くして、家事を全部負担したあげく、かえって子や孫に当たり前と思われて尊敬もされない例は、周囲に少なくありません。しかしそのような年配の弟子はこういう現状が正しくないとも思わずに、自分はとことん良い人になったと思っています。こんな話を聞いて、私は彼らのために心配します。子や孫に尊敬されないで、年長者の最低限の尊厳を捨ててまで良い人になることは、子や孫に業を作らせて、子や孫を害することではありませんか!
大法弟子の尊厳はいろいろなことに現れます。大きくいえば職業に、小さくいえば人間の表面的な文明に、ふだんの振舞い、服飾に現れます。もし私たちが公共の場所で大声で喋り、私たちの服装が汚くて行儀が悪いと、世間の人は私たちを尊敬するでしょうか? 私たちが言った真相を聞いてくれるでしょうか? 逆に私たちの服装が清潔で、立ち居振る舞いが上品で礼儀正しければ、常人は私たちをどう見るでしょうか? 私たち自身が大法弟子の尊厳を重視することは他人に対する尊重でもあり、更にいうと、衆生を救うことにも関連して、衆生に対する慈悲の意味も含んでいると思います。
大法弟子は良い人になると同時に尊厳も守らなければなりません。良い人は宇宙の特性「真、善、忍」に順応しているので、当然、道徳の高尚な人でもあります。常人が大法弟子を尊敬するなら、彼ら自身にとっても良い事で、彼らに福をもたらします。一方、私たち自身のせいで常人に大法弟子の尊厳を踏みにじるような事をさせてしまえば、常人にとって良いことだといえるでしょうか? 大法弟子の尊厳はただの常人の名誉やメンツと違って、弟子の尊厳は大法の威厳の現れだと、皆に分かってほしいのです。大法の威厳は侵してはならないもので、大法弟子の尊厳も同じく重要ではありませんか? 大法弟子の尊厳を守ることは大法を実証して守ることでもあります。自分の尊厳を守ることに注意すれば、常人は逆に私たちを軽蔑しなくなります。私たちが常人に尊敬されることこそ、大法には慈悲と威厳がともに存在することの最も良い証明になると思います。
(完)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/12/16/136683.html)