師父へのご挨拶文を読み同修との差を見つける
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年1月26日】年末に私は、師父に申し上げる新年のご挨拶の言葉を明慧ネットに投稿しました。文章は長くはありませんでしたが師父へのご挨拶、懐かしむ心と自分の決心を、心をこめて書き込んだと思いました。年明けに、私は明慧ネットで世界各地の大法弟子たちが師父に送った祝賀の言葉・詩歌・祝賀カードを見て、とても感動しました。読めば読むほど胸がつまり、涙が自然と流れてきました。

 その数日間、私だけでなく、周りの同修たちも皆「師父への新年のご挨拶を見れば見るほど、感動します」と話し、ある同修は「その日、私は同修と一緒に文章を読みましたが二人とも涙を流し、最後には声を上げて泣きました」と話しました。

 再び自分の書いた師父へのご挨拶を見ると、感動そのものがないばかりでなく、ご挨拶文の中に深く巧妙に隠された人心がありました。それは「虚偽でわざとらしく、不誠実で表面上だけで対処する」ことでした。私はすぐ同修との格差を感じました。これらの格差は文面上の言葉の差異ではなく、心性上の格差であることが分かりました。師を敬い法を敬うことにも認識と向上の過程が必要でした。同修たちの師父へのご挨拶は、本当に師父を尊敬する心がこもっていて真実です。きれいで純粋な一つ一つの文字は心の底からわき出てきた言葉でした。自分が書いた師父に対するご挨拶は、毎年ほぼ変わらず、師父に新年のご挨拶を申し上げてから、着実に修めますなどの決心の話を取り上げます。まるで年配の人に礼儀正しく挨拶するような内容でした。また、毎日師父に線香を立てていますが、合掌あるいはお辞儀をするとき、頭には雑念が多く、ひどい時には悪い念も生じたりします。主意識が強く、師父に対する尊敬する心が重ければ、このような現象は出てくるはずがありません。これは心性と次元の問題ではありませんか?

 私は天目から何も見えませんが、師父が私たちにどんなものをくださったのかはっきり分かっています。もし師父に済度していただけなければ、今日の私はどのような状態で存在し、私の生命はどうなるのでしょうか? 生命の未来はあるのでしょうか? 師父は私に新しい生命をくださいました。私は必ず師父に対して、この上なく誠実に尊敬しなければなりません。私のすべてを尽くしても師父への恩返しはできません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/1/20/267987.html)
 
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