内に向けて探してからの美しい感覚
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年1月30日】私は1998年冬から法輪大法を修煉し始めた農村に住む女性です。修煉してから学法を重視せず、真に自分を修煉者として厳しく要求しませんでした。今振り返って見ると本当に悔しく、恥ずかしくてたまらず、師父の慈悲なる済度に顔向けができません。

 法をよく学んでいない私でしたが、師父からは細やかな関心をいただきました。修煉してから病はなくなり、無病の状態になりました。修煉する前、ご飯すら作れなかった人が、現在は家事と野良仕事を私一人で賄っています。これは全て大法が私に下さった力量と美しさです。

 以下は最近あった関について話したいと思います。周りに5、6人の同修がいらっしゃり、私はよく修煉できていませんが、皆さんはよく私と交流したがっています。その中の一人の同修と日ごろは何の問題もありませんが、二人で一緒に衆生を救うことをやろうとするとトラブルが発生し、数回、一連のトラブルがありました。

 二人とも出発点は非常に良いのですが、外に出て協調しようとするとできませんでした。最初の頃、問題点を認識せず、自分に一理があると思い込み、物事の経過を他の同修に話して、同修に是非を判断してもらいたいと思いました。同修たちも私の言い方に賛成しましたが、心の中にはわけの分からない違和感がありました。

 夜、私は師父に教えていただいた「内に向けて探す」法理で自分の不足を探しました。夜中12時の発正念を終えてから、突然自分の間違いが見つかりました。私は面子を重んじる心を放下できず、人に対する情を放下できませんでした。師父は、私がその心を認識するように同修とのトラブルを按排されたのです。

 その後、横になってから、左目の下から光が見え、懐中電灯の光のように遠くまで照らされていました。このとてもきれいな光を、座ってちゃんと見ようと思ったら、光は見えませんでした。再び横になってからはまた見えるようになり、特にはっきり見えました。これは師父が私を励ましてくださったのです。内に向けて探し、私は着実に修めているように感じ、特に美しい感覚でした。

 個人の次元が限られており、不足の部分は慈悲なる同修のご指摘お願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/1/24/268143.html)
 
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