文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年2月6日】色欲の心は修煉者への大きな妨害になります。捨てることは難しく、気を付けないと簡単に繰り返してしまいます。また法理上で真にその阻害が分からなければ、ある時期において強力に抑え、一つ一つの念まで修めても、徹底的に欲望や性欲を断たなければ、以前よりも酷くなり、なかなか抑えられないのです。私の周りの人のこの面での状態は良くありません。多くの問題があり非常に悩み苦しんでいます。この問題について、法に基づいて考え、同修たちと交流したいと思います。
男女が不倫をせず、異性をみだらな目で見ない美徳は神が伝えた伝統文化の神髄であり、人類の道徳を数千年維持してきました。伝統の道徳観念は人々の心を一定のレベルに保ち、行為を正し、神との正しい関係を保ってきました。これは人が清い身体を保つ最も良い方法です。
しかし、同修の間に一つの普遍的な考えが存在しています。みんな修煉しており、男女の間に常人のような不適切な関係や男女に対する重みは軽いと思われてきました。特に、全体的に一体となって仕事をなし遂げると言いながら、自分が好きな異性とペアになって仕事を進めています。例えば家庭で夫婦間に感情的なトラブルが生じた時も、好きな異性に相談しようとします。時に男女間で普通は隠すようなことまで何でも話してしまいます。ある男性同修は未婚の女性同修と男女の話をよくします。その時、自分は色欲が薄くなったので何を話しても大丈夫だと言い、心が動かなければ大丈夫だと言うのです。さらに、話すことを避けるのは恐れる心であり、捨てるべきだというのです。男女の観念が重く、「情の中で情を捨て」ようとしているのです。
しかし、考えればわかるように、もし色欲の心がなければ、なぜ未婚の若い女性と男女の話をするのでしょうか? 男女の生理的特徴が違うので、もし交流したい場合、同性同士で交流した方が、もっと何でも話せるのではないでしょうか? もし、本当に自分が向上したい場合、同性同士で話せばもっと問題点が分かると思います。従って、若い異性の同修を選んで男女の話をすること自体が、非常に汚い色欲の心です。明らかに自分が言葉で表現して心で満足しているのです。つまり色欲の心を満足させているのです。自分の結婚の失敗、膨らんだ性欲を若い異性に訴えて色欲の心を満足させ、隠れている猛烈な性欲を満足させ、同時に若い異性に汚い色欲を投げつけているのです。その結果、自分が心理的に満足感を得るのです。自分が好きだと思う人に家庭の不満や結婚の不満を話して心理的な満足を得ることは、性的な妄想と何が違うでしょうか?
師父は我々に高いレベルの法理を説かれ、自分で悟り向上する時間を残してくださいました。すべてを指摘されたら我々が自分で歩く空間が無くなってしまうでしょう。しかし、この汚い世の中にいる限り、少なくとも常人の一番基本的な道徳やモラルの基準を守るべきです。これもこの空間やこの次元で人々の行為を規範するために神が定められた規範です。伝統文化の中での正統な道徳の観念は、最も低い次元における法の現れです。常人ですら既婚者は未婚の人の前で男女の深い話を避けているのに、修煉者が未婚の異性の前で何でも話すというのは明らかに常人よりもレベルが低く、常人にも及びません。あなたがまだ修煉を口にするのは受け入れ難く、男女の話に夢中になり、自分の結婚の失敗を相手に吹聴することは非常に恥ずかしく、正常な人の規範にも反しています。
色欲の心が重い人は家庭の中でも邪魔が多く、うまくいきません。助けは必要かもしれませんが、まずは同性同士で話し合い、お互いに助け合うべきで、異性を避けるべきです。人間の基本的な規範に反したら旧勢力はあなたを逃さないのです。異性に話すこと自体が非常に大きな色欲の心です。この面の失敗例は多くあります。
家庭の中がうまくいかない人は個人の修煉もうまくいかないのです。更に心が法の中になければ修煉環境を壊し、他の人にまで影響してしまうのです。「情の中で情を無くす」観念は道徳が非常に低下した現代人の変異した観念です。まるで糞だらけの穴に入って自分を洗うのと同じです。隠している色欲・欲望・性欲を捨てたくなく、膨らませるためです。その人が自分を正当化して、糞だらけの穴に飛び降りる勇気があると誇っているのはもっとおかしいことです。
修煉したら結婚してはいけないとは言っていません。私はあくまでも理性的な意見を述べています。結婚したくない人は結婚したい人に、逆に結婚したい人は結婚したくない人に自分の考えを押し付けない方が良いのです。自分の道は自分で歩むべきで、それぞれの修煉で歩む道は異なります。問題があったら相手を見ることは相手の修煉のためになりますが、自分の修煉にはなりません。内に向けて探すべきです。
私自身もかつて色欲の心が重い同修を助けたいと努力しましたが、失敗に終わりました。成功した例はなく、自分が逆に邪魔されてしまいました。自分より10歳年下の異性の同修に相談しましたが、結局、帰ってきた言葉は「あなたを愛している」でした。もちろん数年前のことであり、自分にもその時、色欲の心が少しあった時でした。もっとおかしいのは、結婚している同修が自分にまだ色欲の心があるかないかを試すために、色欲の場に行くということは非常に邪な念であり、汚い行為です。これは自分の色欲の心や性欲を満足させるためであり、暴走と言えるでしょう。
結婚しない人は職場・親族・社会から様々なプレッシャーを受けていますが、修煉の意志と色欲の心を修め試されるチャンスでもあり、色欲の心を捨てる過程でもあります。私も様々なプレッシャーを乗り越えてきました。真相を伝える時にも影響されました。知り合いに真相を伝える時、簡単に相手に「法輪功を修煉すれば結婚してはいけないのですか?」と聞かれます。私は「もちろん結婚しても良いです」と答えると、すぐ「なぜ、あなたは結婚しないのですか?」と返されてしまうのです。すべての人に私は同じ回答をする忍耐の心がなかったので、答えませんでした。職場や上司からも結婚のことを話題にされました。しかし、私は毎日寝る前に1時間の「発正念」をして自分の色欲の心を取り除いています。もちろん日常的に内に向けて自分を正し、一つ一つ細かい念も逃さず、正しくないものを修めています。
最後に分ったのですが、今まで色欲の心は主に行動に現れると思い込み、自分は行動を起こさなかったので大丈夫だと思い込んでいました。時に色欲の心が観念として現れますが、抑えていました。夢の中でも師父が言われるような色欲の難関は現れませんでした。そのため、今まであった小さな念を相手にしなかったのです。普通の仕事の中で異性に執着しないことを自分の誇りに思っていました。しかし、私は長くこのレベルに留まってしまい、常人の中での小さな念をなくすことをしませんでした。毎日法を読んで学習しても、神の念を人の念と入れ替えませんでした。実は色欲の心は単独には存在せず、ほかの様々な執着心と絡んで存在します。例えば、のんびりしたい心、怠ける心、争う心、食物に対する欲望など様々な執着心と共に存在するのです。修煉者は怠ける心が大きい時、常人の生活を望み、色欲の心が潜んでいます。依頼心が膨らむ時、自分よりできる同修に自分をまかせ、自分を導いてほしいと思う時にも色欲の心が潜んでいます。私は結婚したくないのですが、潜在意識の中に結婚に対する憧れが潜んでいるのです。
自分を修めて1カ月たって、夢の中で色欲の心の難関を乗り越え、それから色欲の心を根元から断ちました。汚いものがあっても見ようとせず、私に繋がるものが一切なくなり、私は誘惑されなくなりました。正しい念以外は一切の邪念が無くなったのです。それから周りの人も一切、私に結婚話をすることはなくなり、すべての邪魔がなくなったのです。実はすべての悩みは心から生まれているのです。
このことから、上記の同修のやり方は色欲の心をなくすという望みもないことになります。変異した観念を抱いて放さないあなたは、色欲の心を抱いたまま天国に入りたいのですか? それとも地獄に入りたいのですか?
今、修煉もゴールに近づいています。人のものをすべて捨てないといけません。実は捨てられないものの背景には、業力と「債権者」が存在するのです。善をもって解決し、それができなければ、上へ向かって向上し、人々を済度すれば何でも解決するのです。
今、社会でインターネットが非常に便利になり発達しています。ある同修は常人の情に陥りましたが、常人の誘惑から早く脱け出して法を実証し、理性的に学法し、三つのことをやり遂げました。個人的なことをなるべく他人に話すことなく、身を清らかに保ち、きれいなままで最後の道をゴールまで歩み続けましょう。