内に向けて探すことは表面に留まってはならず、“取り除く”ことこそ修煉である
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年5月26日】最近同修と交流して一つの問題に気づきました。多くの同修が困惑しており、あるいは精進しておらず、なかなか改めることができない問題があるのですが、このような魔難を繰り返しているため、これらの同修は長い間ある次元に留まり、少しも高まることができないでいます。

 原因は内に向けて探せないわけではなく、多くの場合内に向けて探すことが表面上で留まっており、多くの同修には強い依頼心があることが分かりました。例えば、内に向けて探す過程で、心の中で「内に向けて探しその執着心を見つけただけで、師父が必ずそれを取り除いてくださる」と思っており、人為的に自己への要求を緩めたのです。つまり、内に向けて探す過程で、自己の様々な人心を自主的に取り除かず、自分が取り除くべきものを、師父にお願いするのです。その結果、人間レベルの状態を正すことができず、各種の人心を抑制できなくなりました。大法の基準で自己を律していないのです。そのため、難が繰り返しやってきても、本当に高まることができず。難がまたやってくる時に、相変わらず乗り越えられないのです。

 表面上「内に向けて探す」ことができても、それで「修煉」ができたわけではありません。執着を見つけて「取り除く」ことこそ本当の修煉であり、本当に人間から神に昇華できるのです。修煉の難しさは、自己を正し、自己の心境、自己の思想、自己の観念、自己の問題に対する考えや、考える基点、角度を変えることです。涙をのみ、損を蒙り、冷静で慈悲、和やかな心境を保てるようになるまで、そして自己が世に降りてきた使命を思い出し、衆生を救い済度する強大な正念で自己を主導する必要があります。

 修煉者として、「内に向けて探す」という貴重な修煉方式を、形式に留まるだけでなく、法に符合していない自己を変えなければなりません。また、何かにあったら、まず自己を考え、自己が傷つけられないような思考方式を放棄すべきで、他人の立場で物事を考え、もっと広範囲で、衆生を救い済度する基点で考えなければなりません。

 人間と神には根本的な区別があり、どの角度で物事を考えるのかが、生命の境界の真の現れです。他人の立場で物事を考え、どんなときも衆生を救い済度することを優先する修煉者こそ、利己がなくなり、正のエネルギーを持ち、大法の力を有し、発した言葉は人を感動させ、人を変えることができます。また、そのような人こそ衆生を救い済度する時に最大の役割を果たすことができ、同修の中で正しい力になれます。

 同修の間で、修煉の次元の格差がますます大きくなっています。本当に修煉したい同修たちよ、精進しましょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/5/2/272715.html)
 
関連文章