察し難い「求める」心を取り除こう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年6月8日】修煉による次元の向上につれて、私は常人の観念や執着に益々敏感になり、気づいたらすぐに取り除くようにしています。しかし時には、習慣になっている認識や観念に中々気づかず、意識出来ない故に妨害やトラブルを招いてしまうこともあります。

 ある日、ある同修と交流をする際、彼はずっと咳をしていて、血色も悪く、典型的な風邪の症状を見せていました。私は「どうしたの?」と聞きました。彼は溜息をつき、「求めたものが来た」と答えました。「求めた?」と聞く私に、彼はこう答えました。「昨日、三輪車に乗って荷物を取りに行った時、同乗している荷主が『この天気では風邪をひき易いですね』と言い、私はつい相槌を打ち、『そうですね。こんな天気では風邪引きやすいでしょう』と言いました。この一言で、家に着いたらもうくしゃみや鼻水が出て、しんどくて堪りませんでした」交流中、同修は風邪が業力によるもので、天気の冷暖とは無関係であることに気づき、正念を持ってそれを否定し、症状もすぐ消えました。

 商売を営む同修はよく「この店をやっているのは、金を儲けるためではなく、修煉者はそれを求めず、ここを真相を伝え衆生を救う場にしたいだけです」と口にしています。この話は一見すると間違いがないように思われますが、しかし、じっくり考えてみると、そこに「求め」がありました。商売をするのに儲けは要らないという、あなたの常人の理に反することに対して、旧勢力は隙に乗じ、あなたは本当に儲けることが出来ず、場合によっては赤字が出るようにさせます。多くの同修の商売が繁盛しない理由は、間違った考えがあったためではないかと思います。大法弟子は福があります。もし私達の心や念が正しければ、常人の理に制約されないはずです。また、ある同修が言うには、「私の商売は業種の特徴からみて、一年目は赤字、二年目はまあまあの出来具合、三年目から儲けるようになっています」 そう言いながら、この話は正しくなく、心からも否定しているものの、完全に否定せず、「半信半疑」の心理状態です。特に商売があまりよくない同修達はこの言い方を根拠にしています。この隠れた求めを、旧勢力ははっきりと見ていて、結局は同修の商売を泣き面に蜂にさせてしまいます。 

 大法弟子は衆生を救うことを第一に考えるのは間違いありませんが、しかし、金を儲けるから利益心があるとは限らず、ある程度の経済力は安定した生活を維持し、大法を実証するにも役立ちます。邪悪の経済的迫害に言い訳を提供してはなりません。師父は私達が金持ちになるのを恐れず、私達に金があればあるほど、衆生を救うプロジェクトは展開しやすくなり、世間の人々に真相も伝えやすくなります。

 ある同修は業を滅している最中の同修を見て、軽々しく言いました。「見て、私は滅多に業を滅するのを経験しません」結局、彼は家に帰ってから全身がだるくて、痛くて、数日間苦しみました。表面上、同修は口を修めなかったからに見えますが、実質は観念が転換されていなかったことに由来し、自我の角度から人心を持って同修の状態を評価したからです。

 同修たちが交流する際、このような会話をよく耳にします。「貴方は全然老けませんね。いつになっても若く見えます」この時、言われた方が謙虚に答えます。「いいえいいえ、老けました。見て、白髪も出たし、目もくすんで来ました」同修のこのような常人式の謙虚も修めるべきだと思います。このような認識では、「老け」を容易に求めてきてしまいます。何故なら、他空間では何でも生命であり、「老け」も一つの生命で、その生命の特徴は「老け」です。自分が「老けた」と認めれば認めるほど、益々老けてしまい、皺や白髪、目のくすみなど…。私達の法門は性命双修の法門である故、私達は「老、病、死」などの魔を自分の空間場から一掃し、自分の生命を大法の中で絶えず高エネルギー物質に転換させていく過程で益々若く、益々美しくするべきです。

 数年来、私はいつも携帯電話を上着のポケットに入れています。ある日、ある同修に言われました。「携帯電話は放射線を出すから、心臓に良くありませんよ」 私は「どうして分かりますか?」と聞き返しました。 同修は言いました。「一時私も携帯電話を上着のポケットに入れていましたが、そうしたら、胸に息苦しく感じ、堪りませんでした」 説法の中でこのような話があるのを覚えています。大法弟子の科学者は実験を行う時、手が触れたところの細菌は全部死にました。しかし、細菌に携帯電話をかざして、細菌を殺せますか? 勿論不可能です。そして、私達の手や体は非常に強いエネルギーを帯びており、手に触れたものも光を発します。私達の体は絶えず大法に同化されており、携帯電話の微々たる放射線から何の影響を受けますか? しかし、「自分が病気だと思うと、その求めによって病気がやってきます」 そのように思うから、携帯電話を持っていると、胸が息苦しく、つらく感じるのです。

 何故なら、精神と物質は同一のものです。その次元の理を認めると、その次元の状態が自動的に表れてきます。

 ここ数年、邪悪による迫害はあらゆる隙を狙い、私達の認識が少しでも正しくなければ、すぐにトラブルを招いてしまいます。例えば、当地の一部の同修は凶悪な警察に不当に連行されて、拷問に耐えられず、本心でない「三書」を書きました。この時、別の同修はこう言います。「私なら、打ち殺しされても書きません」 私が思うには、この類の「求め」は容易に迫害を招いてしまいます。ある同修は病業を乗り越えられず入院しました。この時、別の同修はこう言います。「私なら、痛みで死んでも入院しません」 この言い方も一種の「求め」で、非常に危険で、容易に邪悪の「試練」を招いてしまいます。 

 周囲に見られた幾つかの事例と、それに対する自分の少しの認識を、ただ書き出しただけで、皆さんと交流したいと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/1/274700.html)
 
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