情を取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年6月13日】法を得た当初、私はまだ子供でした。この十数年、大法に従って成長し、師父の慈悲なるご加護と「真・善・忍」の法理の導きの下で、両親の教育と助けもあり、自分を修煉者の基準で要求し、正念を持って修煉の道を歩んできました。しかし、常人社会の汚染や、何回もの転生のうちに生じた執着と業力のため、魔難と難関の前で、やはり難しく、なかなか乗り越えることが出来ませんでした。特に情の関に遭う時はそうでした。

 修煉者の執着は人によって違いますが、私は名利にはあまり執着しませんが、情の執着はなかなか放下できませんでした。小さい頃から修煉していたため、大学卒業後、仕事をしてからも男性と付き合うこともありませんでした。しかし、これは私には色欲の心がなく、男女の情が薄いためとは言えません。

 修煉者の婚姻問題について、ずっと結婚には反対との意見を持っていましたが、今考えてみれば、欲望を抑え自分の修煉に責任を持ちたいと思う以外、多くはやはり人心でした。例えば、恐れる心、他人が結婚したり離婚したりして情に阻まれている様子を見て、自分も傷つけられ、情の中に陥って次元が落ちてしまうことを恐れました。また良い相手が見つからないことを心配して、完ぺきを追求する心から満足できませんでした。真に自分の執着にぶつかったとき、間違いをしてしまうことを恐れ、逃避する心もありました。同修から常人の状態に符合するために同修と結婚したほうがいい、修煉にも影響もないからと言われましたが、自分の心の中では、情のない婚姻は何の意味もない、それなら結婚しないほうがましだと思いました。

 しかし、口で結婚しない、付き合わないと言うのは、情とこの面への執着がないことを意味するのではありません。大法弟子の人心は師父が一番よく分かっておられますので、人心を取り除くため必ず機会を作って、修めさせ向上させられます。邪悪の旧勢力もはっきりと見ているので、こられの人心を利用して隙に乗じ、落とすのです。

 師父と大法が与えてくださった健康な体、明るい性格、寛容、善良な態度から、私と付き合いたい人は少なくありません。以前は全部はっきりと断って、友達になった人もいますが、彼は真相が分かり、美しい未来を得ました。しかし、この過程で真に男女の情へ執着する心が触れられることはありませんでした。

 師父は『轉法輪』の中で「常人の中で捨てられないような心を、全部あなたに捨てさせなければなりません。どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません。さまざまな失敗を経験させ、失敗の中で悟らせることこそ修煉なのです」と説かれました。

 去年、1人の常人の友人が私に交際を求め、いくら断っても、彼は相変わらず優しくしてくれ、すべてのことにおいて私に従いました。これは私に強烈な歓喜心を生じさせました。自分が魅力的で愛されていることを他人に見せたい顕示心、ほめられたい心などから、毎日相変わらず法を勉強するのですが、すでに正念は完全になくなりました。彼が再度恋人になってほしいと言ってきた時、断ったのは本心からではありませんでした。断わられた彼は意外に泣いてしまい、自分が受け入れられなければ自殺すると言いました。私の善良さはこの時、もう法の威力がなくなり、常人の哀れみに変わりました。真相を伝えた時、彼は静かに聞いてくれて、彼のお母さんもかつて修煉したそうで、しかも私のために三退して、私のためならなんでも諦めると言い、私は愛されたい執着、断ったら私と大法が良くないと言われることを恐れ、この真心のような情を失いたくない心もあり、心配しながら承諾しました。

 それからの修煉状況は日ごとに下がって、強制的に法を勉強するようにしました。法を勉強することはとても厳粛なことなので、形式的に行なうようなことはしてはならないため、精神が他のことに行ってしまうとき、読んでいるところをもう一回読むようにしました。しかし、情の妨害で、ついつい集中できなくなり、結局一つの講を読み終わるまでとても時間かかりました。全部目に入るようにできたのですが、しかし、自分と照らしていないため、甚だしきに至っては、法に基づいていないのが分かりながら、それを正すことをしないで、実修せず、高まるどころか、逆に次元を落としました。色欲心の作用で、彼と親しくなるたびに幸せを感じますが、家に帰って法を勉強する時、強烈な罪悪感を抱え、修煉者はこうすべきではないと思いました。しかし当時、情への執着を放下できず、放下しようともしないため、よくないと知りながらも、諦められませんでした。神になりたいと思う一方で、人間への執着を放下できず、巨大な圧力で苦しみました。

 付き合ううち、彼の人と接触する時の態度と方式が、全くの常人だということに気付き、満身の業力と極端な私心、党文化に深く毒されて正念がまったくないことから、修煉者と常人との巨大な距離を感じました。その後、彼は病気にかかり、お見舞いに行った時、彼に「法輪大法が素晴らしい」と念じさせ、お守りをあげると、彼は断って、本当のことを話してくれました。彼は本当に大法を認めたのではなく、私を求めるため、そのように言えば私の承諾を得られると思ったからそう言ったと認めました。再度彼に真相を伝えると、彼は少しも聞き入れませんでした。この時、私はやっと目が覚め、彼の本当の姿を見破りました。私は、大法を受け入れないなら別れると言いました。

 もっとショックを受けたのは、彼は何ごともなかったように承諾して、以前私を求めた時とはまるで別人のように冷たく、またたくさんの傷つける言葉を言いました。本当に師父がおっしゃったように、「往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」(『轉法輪』) 私の自尊心、メンツを重んじる心、闘争心、虚栄心のすべてが湧きあがって、いつも超然としていた私は、どのようにこの屈辱を受けとめたでしょうか。表面は冷静を保って、爆発しませんでしたが、内心は怒りが頭にまで達し、完全に常人と同じでした。

 今回は本当に、私の根本的な執着が表れ、奥深く隠れていたあらゆる人心が全面的に暴露されました。それから私は、長期にこの魔難に落ち込んで抜け出せず、涙をこぼしました。意気地のない自分を悔やみ、心性上の漏れで旧勢力の罠に落ちて悔しい心が生じ、彼のせいで自分が落ちてしまい、関を乗り越えられなくて師父に申し訳ないと思い、彼に対して恨みと責任を追及したい心が生まれ、彼が他人に好感を示すのを見ると、嫉妬心、恨む心、復讐心が生じ、修煉者を迫害するこのような邪悪な常人は、早く報いを受けてほしいとさえ思いました。

 執着、欲望、情の魔と旧勢力の攻撃の中でも、幸いに最後の正念を保ち、師父の慈悲なる保護の下で、人間の道徳を守り、修煉者としての資格を失わなかったのです。でなければ本当に台なしになってしまったら、師父に向き合うこともできません。

 「私がいつも言っていることですが、大法を学んだら、良いことにあっても悪いことに遭っても、皆良いことです。(拍手) なぜならば、あなたが大法を学んだから現れてきたことだからです」(『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』)。

 大法は無辺であり、師父は慈悲でいらっしゃいます。師父は関を乗り越えられなかった私を見捨てられませんでした。十数年来、様々な困難を経験して歩んできた修煉の道を振り返ってみると、邪悪の迫害の前でも恐れることなく正々堂々と正念が強かったのに、このぐらいの情の関が、どうして私を阻むことができたのでしょうか! どうして精進の勢いを止められたのでしょうか! 歩んできた道を大切にして、頑張って確実に修煉したい、魔難を越え、今後の道をよりよく歩み、再び師父にがっかりさせないようにしたいと決意しました。

 私は大量に法を勉強しはじめ、毎日3、4時間しか寝ないことにし、39冊の大法の本をもう一度全部読み終えました。普段見つかった執着心をノートにメモをして、忘れないようにそれを出してみて、できるだけ早いうちに取り除くようにしました。「実修」と書いた紙を目に入りやすい場所に貼り、いつも思い出すようにして、普段の一念一行を正し、発正念にも力を入れて、人心の欲望が浮かんできたら、あるいは以前の妄想が妨害しに来たら、すぐに正念を発して取り除き、決してそれらを本当の自分と認めませんでした。正念だけを残し、人心を取り除きました。毎回正念を発して自分をきれいにするとき、旧勢力のすべての按排を全面的に否定し、師父が按排して下さった道のみを歩み、すべてを師父にお任せするという一念を加えました。自分の空間場のすべての情の魔と卑しい鬼を滅して、生命の本源から色欲心と嫉妬心、顕示心と闘争心などのすべての要素を解体しました。テレビを見るのをやめ、インターネットを使う時もドラマや映画など情を引き出すものを見ず、情にあふれる歌を聴かず、聞く時は大法の歌にしました。歩くときとバスに乗るとき、『共産党についての九つの論評』、『党文化の解体』を聴き、あるいは『洪吟』を暗記したり、後天的に形成した観念に、自由に考えさせる機会を与えませんでした。そして大法弟子の使命を忘れず、すべての機会を利用して真相を伝え、人を救い済度し、自分の思いを修煉と衆生を救い済度する正しいことに置きました。

 こうして学法と実修をしてしばらく経つと、以前のような状態がなくなり、多くの人心を放下できました。ある日の夜、別れた恋人と私の前世の運命を夢で見ました。前世の彼は、私と一緒になるために多くを犠牲にして、財産、権力、家庭、ひいては命にまで至りましたが、最終的に私は同意せず、かえってこのようにして欲しいと自分から言っていないし、こうしたらあなたと一緒になるとも言っていないと言いました。彼の両親が来て、いくら頼んでも私は少しも動揺しなかったのです。彼の生命はずっと私を怨んでいたかもしれませんが、この世の借りを取りにきたのです。このことが本当なのかどうかに関係なく、彼への恨みはすでになくなりました。彼が私に優しくしていた頃にしても、悪くなっていた頃にしても、すべて本当の彼ではないかもしれません。私たちの間の関係を利用して旧勢力が私を試し、私を落とすのが目的です。常人が操られるのはとても簡単なことで、彼はただ旧勢力に操られた道具であり、かえって私がその時正念を持ち正しく歩まず、よく修煉できなかったことで、彼を救い済度できなかった上に、自分も危なかったのです。この時やっと分かったのは、執着している時は悩みに悩む苦があり、執着を取り除く時は胸が刺されるような苦もありますが、本当に放下できた時は苦とは思わなくなります。まったく『洪吟二』「執を去る」の中に書いてあるように「自己に非(あらざ)るを切り捨て それらすべて是迷中の痴」です。

 繰り返して法を勉強して、内を探し、執着を取り除く過程で、徐々に精進する状態に戻りました。この文を書く目的は、自分が心の底に隠れていた人心を全面的に暴露し、私の空間内のそれらをなくし、徹底的に取り除いて、自分をよりよく修めたいからです。一方、自分と同じような執着がある青年同修の助けになればと思いました。共に交流し、精進しましょう。

 最後にここで明慧の同修に感謝したいと思います。毎週明慧を見るたび、元気が湧いてくるように感じ、正念が増して、更に精進できるようになりました。

 個人の悟りであり、不足なところがあれば、ご指摘を願います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/2/274792.html)
 
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