内に向けて探すことへの間違った認識
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 【明慧日本2013年6月23日】内に向けて探すことは、修煉者ならみな知っていますが、そこには幾つかの間違った認識があります。それによって、私たちはこの宝物を真によく運用できず、長い間、修煉において、行ったり来たりしています。以下は自分に見えた、内に向けて探す際のいくつかの落とし穴について話します。

 一、形を変えて外に向けて探す

 いつも一部の同修は、修煉体験を語る時、「このことに遭遇してから、私はまず内に向けて探しました。しかし、何回探しても、何も見つからなかったのです。もちろん、このことにおいては、必ず私が修めなければならないところがあるはずです。私は誰それが何々に執着していることに気づきました」と言います。これはやはり外に向けて探すことに等しいのです。

 一見、非常に誠実に自分を探しているように見えますが、最終的には他人の問題を見つけました。しかし、言っている言葉は非常に心地よく聞こえ、党文化のなかで、党幹部がしゃべる言葉のようです。例えば、この問題において、指導者として私には責任があります、と言った後に、他人がどうのこうのとしばらく話すのです。

 二、相手に内に向けて探すよう要求する

 修煉者の間には常に色々なトラブルが発生します。多くの人はみな相手に「このことは偶然ではありません。あなたは必ず内に向けて探すべきです」と言います。まるでこのことは自分とは無関係で、自分は部外者のようです。まるで、自分はこの問題において修めるところがなく、すべては相手に修めさせるために発生したようです。

 三、条件をつけて内に向けて探す

 条件つきで内に向けて探す現れとして、「あなたが内に向けて探さなければ、私も内に向けて探しません」というのがあります。

 場合によっては、トラブルに遭遇した際、誰も冷静になって内に向けて探そうとせず、相手が内に向けて探し始めて、やっと自分も内に向けて探すべきだと気づくのです。まるで先に内に向けて探したら、損をするかのようです。そのため、条件付きで内に向けて探すことになってしまいました。

 四、問題を解決するために内に向けて探す

 一部の人は、「私は内に向けて探し、自分の多くの不足を見つけましたが、このトラブルはまだ解決できていません」と言います。まるで内に向けて探すのは、常人のトラブルを解決するためであり、本質的に自分を変えるためではなく、また本当にこのトラブルを、自分が向上する良い機会と見なさず、むしろ常人の何かのために、内に向けて探しているようです。

 五、空虚に内に向けて探す

 一つの地区で何かの問題、あるいはトラブルが起きたとき、往々にして一部の人は体験談を語る時、「我が地区全体に何らかの問題が起きたのではないでしょうか。みな何かの不足があるから、こうなっているかもしれません」と語ります。また一部の人は自分の修煉状態が良くないと、常に「私たち全体に問題があるのではないか。だから私の修煉状態は良くない」と言います。これも一見、内に向けて探しているように見えますが、実際は空っぽで、実質的なものは何もありません。もちろんこのようであれば、向上することはできません。

 以上は自分に見えた、いくつかの内に向けて探す際の落とし穴です。私にもこのような不足が存在します。では、どうしたら真に内に向けて探すことができるでしょうか。

 私が思うには、まず法をもって自分を照らします。もし、常人と比べて、自分のある面が他の人より優れていると思う心が生じれば、自分の不足を見付け出すことは、とても難しくなります。人にはそれぞれ優れた面と足りない面があります。自分の優れた面をもって、人の足りない面を比べたら、永遠に自分の不足を見けることができず、向上できないのです。法をもって自分を照らし、自分に要求するのです。あなたが修煉する人でさえあれば、あなたは永遠に不足があり、永遠に円満の基準とは差があります。差が見えたら、それを補えば、それによって、あなたは絶えず向上していきます。

 次に、純粋な心をもって内に向けて探すことです。いかなる条件もつけず、いかなる客観的な原因を強調してもいけません。例えば、相手が良くない、環境が良くない、この人は是非を論じない、あのことは私のせいではない、私はすでに極限まで耐えた、私の運命はあまりにも不幸だ、このことは私に対してあまりにも不公平だ、等々、いわゆる原因があるから、内に向けて探しません。確かに客観的な原因がとても多くありますが、しかしこれはまさに、あなたに自ら自分を修めるチャンスを与えています。たとえ、非常に大きな困難を目の前にしても、自分を修め、内に向けて探すべきです。

 ですから、内に向けて探すことはスローガンではなく、形式でもありません。逆に修煉者が向上し、昇華する前提です。不足を探すばかりか、自分の不足を取り除く決心もなければならず、これでこそ修煉を完璧にやり遂げたことになります。

 以上は内に向けて探す際の落とし穴です。私もかつてこのような状況がありました。周りの同修にも同じ状況があることが見えましたので、互いにアドバイスするために書きました。

 最後に師父の説法を一段落、共に学びましょう。「ですから、いざこざが起ったときに、各自は内に向いて自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません。もしあなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。周辺に起きるすべてのトラブルや、あなた達の間に現れたいざこざ、現れたすべてのことは恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきことがあるのです。この事があなたのせいであるか、また彼のせいであるかを問いません。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、このまだ取り除かれていない心を認識させます。しかしあなた達はまだ言い合っており、これが私のせいではないとか、あるいは皆自分が法を守っているとでも思っていますが、彼も自分は法を守っていると思うのです。実のところ恐らく両方とも正しくないところがあったからこそ、いざこざが起きたのです。」(『ヨーロッパ法会での説法』)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/17/275411.html)
 
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