文/中国の大法弟子 智苹
【明慧日本2013年7月3日】私は最近、同修と協力する中で、自分がいかに心を修めたか、その過程を書き出して、皆さんと交流したいと思います。法に合致しない所があれば、慈悲なるご叱正をお願いします。
私達の地域には資料を作る所が少なく、明慧ネットを見ることのできる同修も極めて少ないので、毎週の真相資料は1人に数枚しかありませんでした。王立軍事件の後、私は法を正す情勢に遅れないよう、それに関する真相資料を大量に配って、中国共産党の悪行を暴き出さなければならないと考えました。しかし、同修達の手元にある資料は、依然として1人に数枚しかなく、この状態は法を正す進展の要求にはるかに及びませんでした。その上、周りの同修も、この機会を利用して、多くの真相資料を配り、人を救いたいと望んでおり、みんなが自分達の資料を作る所が必要だと意識していることを、私は知っていました。
資料作りにとても適している同修がいました。彼女の夫は長年出稼ぎに出ており、家には彼女しかおらず、しかも、彼女は明慧ネットにもアクセスできる人でした。しかし、この同修は「自分には資料を作りたいという気持ちはなく、その上、心理状態が不安定で、パソコンもよくできず、ネットで交流文章をちょっと読 む程度なので、それ以上なにもできません」と言いました。私は「私達2人で協力しましょう。私が技術を担当して、あなたは手伝ってくれるだけでいいです」 と言いました。私が励ました結果、同修は賛同してくれました。
機械はすぐ買い揃えました。技術の得意な同修の協力を得て、印刷もマスターし、資料を作り始めました。しかし、同修と協力を始めてから、わずか数日で、私は2人の修煉状態、問題に対する認識には、相当大きな違いがあることに気付きました。同修の言葉は私の胸を突き刺し、私の言葉は同修に明らかに違和感を覚 えさせました。この同修と協力する過程は、2人が心を修め、内に向けて探し、互いに協力して、実修していくものだと認識しました。私は絶対うまくいくと十 分自信を持っていました。私は同修に「性格も認識も異なる私達2人が、一緒にこんなに神聖な仕事ができるという事は、師父の按排によるものです。私達がこれをうまくやりとげられれば、向上するよい機会になります」と言いました。
しかし、私の願いと違って、数日後、同修は私が来なくても良い、自分はもう1週間の資料を作ったと言いました。次の週になると、彼女はまたもうこの週の資料は出来たから、来なくて良いと言いました。更に1週間過ぎて、同修が「三退」のリストを持って来て、「私は入力ができないので、あなたはこれをやってください、資料作りに来なくてもいいよ」と言いました。同修の言葉を聞いた私は大変つらい思いをしました。資料を作るのは私の長年の願いだったし、こんなに神聖な事をさせてもらえないとは・・・、私は黙って名簿を受け取りましたが、心の中はとても痛みました。
同修が帰ってから、私は冷静に自分の心を分析しました。私はどうして辛いのでしょうか? どうして悔しいのでしょうか? 私が辛いのは、同修が私とうまく 協力できず、勝手に私を押し出してしまったからです。しかし、この資料を作る所は私達2人でお金を出し合って作り上げたものです。彼女にそんな権利はない はずだと思いました。私は悔やみました。私の長年の夢は水泡に帰しました。しかも、それは私の間違いによるものではなく、同修の押しつけによるものではあ りませんか。この時、私は師父の言葉を思い出しました。師父はいつも私達に他人を寛容に許し、他人を理解し、何事も他人を優先に考え、先に他人のことを考え、自分を後回しにして、無私な人になるように求められました。しかし、私は先に自分がどれほど辛いか、どれほど傷つけられたかを考え、同修のために考えていませんでした。もしかしたら、私は同修を誤解したかもしれず、もしかしたら、同修はもっと周到に考えてくれていたかもしれません。1人でできることは2人でやる必要はないから、労力が節約できると思ったのかもしれません。そのように思うと、私の心はぱっと開けました。同修達が真相を伝える時、配る資料があり、人を助けることができれば、私は他の仕事をしても構わないのです。私は、心から同修がこの神聖な事をしっかりと行うことができるよう、正念を持ってサポートすればよく、私を必要とする時、全力で協力すれば良いと思いました。
数日後、同修は「プリンターが壊れて、技術の得意な同修に修理を頼みました」と言いました。私は「新しい機械がどうして壊れたのですか? あなたは心を先に修めて、それから機械を修理すべきです」と言いました。同修は「大した故障ではないけれど、私は修理できないのです」と言いました。私は「あなたは自立すべきです。故障をしたら、自分で良く考えて、『天地行の技術フォーラム』で処理方法を探して、どうしても駄目だったら、技術の得意な同修に頼むべきで す」と言いました。彼女は自分で入力もできないし、「フォーラム」にアクセスもできないと言いました。私は「では、必要だったら、私を呼んでください、私達2人で協力して頑張りましょう、師父もいらっしゃいます。師父は私達に知恵を与えてくださいますから」と言いました。しかし、同修の次の言葉はまたもや 私の予想外のものでした。彼女は「最近、私は1人で手が回らないから、他の『・・・さん』にお願いして、一緒に協力してやっています」と言いました。
私の心の中でとても悔しくて、「あなたはこんなことをしていいでしょうか? 手が回らなかったら、どうして私を押し出したのでしょうか? 私と一緒に協力するのは不愉快だからでしょうか、それは私達がお互いに心を修め、内へ向けて探し、お互いに高めるよいチャンスではありませんか? どうしてこの向上する 機会を押しのけて、道を迂回するのでしょうか? それに、あなたはあまりにもやり過ぎてはいないでしょうか? あまりに人を尊重せずし、利己的ではないで しょうか? だから機械が壊れてもおかしくないですよ!」という考えが心のなかで猛烈に沸き起こりましたが、表向きは黙々として、なに一つ言いませんでし た。
私は今自分の心が修煉者の基準に合致していないことは分かっています。それは私が外へ向けて見ているからです。問題に遭ったら、無条件に内に向けて探さなければならないはずです。師父はおっしゃいました。「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。これは修煉上の最も有効な手段であり、大法弟子が修煉する際の特徴です。いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、こ れはすなわち『内に向けて探す』ということです」[1] 師父の法に照らして見れば、私は無条件に内へ探すことをやり遂げていませんでした。どうして同修が他の同修と協力しているのを耳にして、あれほど不満なのでしょうか? 師父は説かれました。「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[2] 「人と人との間にトラブルが発生した時に、穏やかな心を保つ ことは大変難しいものです」[2] それは、自分の自己に固執する心に触れたからではないでしょうか。資料作りを提案したのは私ですし、その上、私がお金 まで出したのに、結局私は押し出され、他の人と協力して、私が威徳を作るチャンスを他人に譲ってしまったと思ったからです。実は今度のことは、私の嫉妬心、闘争心、怨む心、私のため、自己のための心を暴き出してくれたのです。
私は自分を高めなければならないと認識しました。私は自我を放下すると同時に、心の容量を拡大し、同修の欠点を包容して、同修の長所を多く見て、相手の欠点を1枚の鏡として自分を見なければならないと思いました。同修の利己的なことは、自分の利己的な所を反映しているのではありませんか? 更に掘り下げて行くと、自分が三つのことをやる中で、また私心を隠していることに気付きました。たとえば、自分が威徳を上げるため、自分がもっと高く修めるため、自分の世界をもっと繁栄させるため等など、100パーセント、法を正す師の手伝いをするためではありませんでした。私は分かりました。1人の大法弟子として、旧い宇宙の私のための特性から脱け出さなければなりません。新しい宇宙の無私無我の基準に達していかなければなりません。
幸いなことは、この事を通して、私の深く隠されている私心が浮き出てきました。私はこれを機に、この私心を暴き出し、解体し、取り除き、私の空間に立脚点がないようにします。今から、最も清浄な心で、無私無我な境界で師父に委ねられた三つのことをしっかりと行って、名実ともに備わった大法弟子になれるようにいたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『大法弟子とは何か』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』