「放棄」した後は何もなくしていない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年7月12日】私は1998年10月に修煉を始めました。修煉前から現在まで、私はずっと中古オートバイの商いをしています。この十数年の修煉の中で、私は少しずつ利益に対する執着心をなくし、法の要求に基づいて、常人の考え、やり方をやめ、自分を着実に修め、次第に法を実証し衆生を済度することを最優先にするようになりました。

  毎回モールがオープンする前日、私は大法の真相資料、広告、宣伝ビラをできるだけモールの最も目立つ所に置き、より多くの人の目に真相を触れさせるようにしています。一方、朝9時~10時の間は、住民が最も資料を取りやすい時間帯なので、私はこの商売のゴールデンタイムを放棄して、近くの団地へ真相資料を配りに行きます。

 私は法の要求に基づいて物事を進め、修煉者の基準で自分を要求していますが、最終的に、私は何もなくすことはなく、時にはより多くの物を得て、しかも時々、常識で考えられないようなことも起きます。次に、私の商売の実例を挙げます。

  ある日、年配のお客さんが私のバイクを買いたいと値段も決めました。ちょうどその時、2人の若者が来て、50元をプラスするのでそのバイクが欲しいと言いました。私はすぐに自分が修煉者であることを自覚し、信用が大事で、移り気になってはいけないと思いました。まして、年配のお客さんへの売り値でも利益があるので、利があれば、義を忘れてはいけないと思って、そのまま、年配のお客さんにバイクを売りました。その後、2人の若者にその理由を説明し、彼らに同じモデルの物を探してあげると約束し、お互いの電話番号を交換しました。彼らは「兄さんは信義を重んじる人ですね。私達はあなたを信じます」と言ってくれました。その後、私は彼らにバイクを斡旋してあげました。1カ月後、突然彼らから電話をもらいました。「友達が2台のバイクを売りたいといっている、値段も安いので、見に来てください」と言われました。私達は約束の場所で会いました。彼らは「値段は任せます。私達はあなたを信用していますから」と言いました。この時、私は彼らから得た信用は法輪大法の修煉によるもので、私はこの信用を利用して人を騙してはいけない、もっと高い基準で自分に要求しなければならないと思いました。私は「大儲けする」考えを放棄し、普通の値段でこの取引をまとめました。

  普通の商売人は、朝6時前にもうすでにモールに来て商売を始めています。私は朝に煉功発正念をしますから、その時間には当然到着できません。いつも8時以後の到着になります。ある日、同業者の人が私に1台のバイクを譲ろうとしました。それは値段も安く、品質も比較的良いものでした。私は簡単に手続きを確認して購入しました。しかし、「私は着くのは遅いし、同業者もたくさんいるのに、どうして誰もこのバイクが要らないのだろうか」と思って、他の人に聞くと、「あのバイクはエンジン番号が手続きに合わないと誰かに言われた。だから、欲しい人がいなかった」とのことでした。私はちょっとびっくりして、「手続きは揃っているし、本体番号も合っているから、エンジンには問題がないはずだ」と思いました(その時、真面目にエンジン番号を照合するべきでしたが、値段が安いため心が焦り、エンジン番号を照合しなかった)。そこで、私はすぐにエンジン番号を照合して見ました。実は、バイクのエンジン番号は油垢に覆われて番号が見えない状態でした。苦労して、油垢を拭き取って見たら、番号は手続きに合致していることが分かりました。つまり、油垢をきれいに拭き取るまで、エンジン番号を見た人は誰もいませんでした。「エンジン番号と手続きが一致しない」ということはなかったのです。その時、「これは恐らく私が得る べきものだった。おそらく、師父は私に利益を放棄するように励ましてくださっている。法に多く気をかけていれば、たとえモールに遅く来ても、商売は影響されない」と私は理解しました。

  またある日、たくさんの人が1台のバイクを囲んで見ていました。私はちょうど到着したところで、私もそれを見ました。そのバイクは、値段がとても安く、 車体の状況もよかったのです。しかし、排気パイプがぼろぼろになっていると言う人がいたため、買う人はいませんでした。私は排気パイプを見ましたが、外部を包装紙で包んであり、排気パイプは壊れていなかったので、私はすぐそれを買い取りました。すると、すぐに欲しい人が現れ、「あなたに200元を足して私に売ってください」と言われました。時価であれば、私は500元を儲けることができたのですが、師父のお言葉を思い出して、そのような人になってはいけないと思い、バイクを彼に言われた値段のままで売却しました。銀行にお金を取りに行く途中、彼に真相を伝え、「三退」をしてあげました。

 常識では、排気パイプの外に包装紙があっても、排気パイプの鑑定には邪魔にならないはずです。まして、業界内に「やり手」もたくさんいるのですが、彼らは誤って判断して、この機会を遅刻した「凄くない」私に譲ってしまい、私に儲けさせました。

 法理では分かりますが、今世の福(業力を含む)は一生一世で決まったものではなく、長い年代にわたって蓄積されたものであり、常人の努力によって決まったものではありません。だから私達は自分がまず修煉者であり、その後に商売人であることを忘れてはいけません。

  自分のこの数年間の商売から見ても、その通りだと思いました。近年、同修の協力のもとで、法を学ぶことによって、執着心を多く放棄し、商売に投入する力をだんだん減らし、「三つのこと」に対する気持ちが強まりました。衆生を済度することにより多くの力を入れれば、商売はかえってとても順調になりました。また、得られた収益を法を実証することや、もっとコストのかかる人を救うプロジェクトに投入して、資料作りに良い資金環境を提供することができました。もち ろん、自分の日常生活にも余裕が出て来ました。

  法の学習と実際の事例を通して、私は「修煉者が商売をすることは、常人の仕事と形は同じでも、それはあくまでも、修煉の媒体に過ぎず、心性の向上、法に対する理解、法を実証すること、衆生を済度することはすべてその中を貫いている」と悟りました。常人のいろいろな執着心を絶えず放棄して、はじめて宇宙の大法に同化することができ、最後に円満成就できます。商売をして、常に利益に触れている中で、常人の要素を放棄すればするほど、商売が順調になり、そのうえ、楽 に商売ができることを体得しました。こうなれば、法の実証と衆生の済度にもっと多くの力を投入することができ、同時に、自分の境地を昇華させることができ るようになります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/6/276302.html)
 
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