神韻のアート・エディターの仕事に携わる中で向上する(一)
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文/台南の大法弟子

 【明慧日本2013年7月27日】私は2011年、ある偶然の機会により、北米2012年神韻のアート・エディターの仕事に携わることになりました。しかし、この仕事に入って間もなく、自分が担当するのは専門的なアート・エディターの仕事であることに気付きました。つまり、自分は専門のアート・エディターのソフトを使って仕事をこなす必要があり、法の自分への要求は高くなりました。実際、私はこの面の専門能力が全くなく、一般的にこれらの専門知識は職業専門学校でしか教えていないので、勉強できる所もありませんでした。同修の中でこの面の能力を持つ人はいますが、しかし彼らは忙しく、基礎から少しずつ教えてもらうのは恐らく不可能なことなので、どうしたらいいのかと考えました。孤立無援に陥ったと感じた時、マウスを握った手が無意識に一つのリンクを開きました。ちょうど自分が必要としていたソフトの使い方を無料で教えるビデオがあったので、本当に不思議で感動しました! このネットに導いてくださった師父に感謝します。このソフトの講義は全部で22回に分けられており、ここで専門な能力を勉強することができ、本当に嬉しかったです!

 法を正す進展は速いもので、自分が4個目のビデオを勉強した時、2013年の神韻のアート・エディターの仕事がすでにアメリカから送られて来ました。私は時間を大切にせずあまり勉強できなかったことを後悔しましたが、今から勉強するしかありませんでした。

 よく困難に遭い、夜中にどうしようもなくなったとき、師父がおっしゃった「難しいと知りながら、さらに進んで行う」(『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』)を思い出し、前へ進むしかないと思いました。長時間パソコンを見つめ、目が極めて疲れた時、師父がおっしゃった「忍び難きは忍びうる」(『転法輪』)を思い出しました。こうして転びながら神韻の大型広告、小型ポスター、DM(ダイレクトメール)、三つ折り冊子と四つ折り冊子を完成しました。「難しいと知りながら、さらに進んで行う」過程で、師父がそばにいらっしゃっているので、法もあるから必ずできると信じました。一つ目の大型広告が本当に完成した時、嬉しくて眠れず、また、歓喜心を起こしてはいけないと分かりながら、どうしても嬉しい気持ちを抑えきれず感激して眠れませんでした。

 本来これらを完成してもう終わりだと思っていましたが、意外にも8ページ、12ページ、16ページの冊子と新聞広告、テレビ広告、最後にネットのデザインの手伝いまで受け持つことになりました。私はまるで子供が大型自動車を運転しているように感じ、最初は愚かにも仕事を引き受けましたが、今考えてみると怖さが後にくるように感じました。

 半年間勉強しながら、たくさんの困難を乗り越えました。師父はいつも弟子に最高のものをくださいます。北米の同修にから、これらのファイルが他の都市に送ると聞いて、私はとても感動して、神韻の機会を借りて、師父が法を正すことの仕事を分担できたことに栄耀を感じました。心から喜びが湧いてくると同時に謙遜も生じました。今後もっと勤勉し大法弟子がやるべきことを行ない、修煉の道をより良く歩んで行き、この大型自動車を徐々に穏やかに運転できるようにしたいと思います。

 協力の中で自分の不足が見えた

 この半年、北米の同修と協調の中で、大体ネットを通じてメッセージを交換して、通話はほとんどありませんでした。しかしおおよそ順調に進めることができ、毎日仕事が終わって家に帰ったら、メールを開いて、あるいはネットでのメッセージを見て、何をやるかはすぐ分かりました。とても明確で、はっきりとしていて細かく漏れはありませんでした。純粋で正確かつ効率的な感じでした。北米の同修とは、修煉と無関係のことは話したこともなく、いかなる感情的なやり取りもなく、物事の手配はとても順序良く、時間的にも無駄がありませんでした。故に、お互いに各自の責任を負い、お互いに協調しやすく、言葉が多くありませんが、しかし北米の同修の正念を感じることができたので、この正念の力も私に大きな刺激を与えてくれました。

 北米のその同修と2年ぐらい協力して、最近やっと他の同修から彼女が現地の大法学会の責任者であることを知りました。彼女自身はそのことを言ったこともなく、自分を一般の修煉者と見なしていました。同修は自我と名のための心がこんなに淡泊で、ただ法を実証するだけで、自分を実証するためではありません。自分との大きなギャップを感じ、自分と照らし合わせてみると、私は深く隠した「何かを行なえばそれを人が知らなければ気が済まない」心が見つかりました。この自己のための汚い殻を剥くことができなければ、いかにして天に帰るのでしょうか。

 もう一つ、私は忘れられないことがあります。それは本当に、小さなことではありませんでした。ある時、私のミスにより、DMの文字を間違ってしまいました。チェックした時は全く見つけることができませんでした。しかし、同修は何も無かったように、その一文字を訂正してくれ、私にメッセージを残しただけで何も言いませんでした。その後、自分が繰り返し聞いたことで、やっと、すでに2万5千枚を印刷したと話してくれました。私はその瞬間、落雷に遭ったようにびっくりして、自分は責任を負わなければならないと思い、それを処分して印刷し直してくださいと言いました。しかし同修は現地の同修たちと交流して、一つ一つ紙を貼って訂正すると決め、もうやっていますと言いました。私は悔しかったです。自分のミスを補うために同修たちに時間を取らせてしまったのに、かえってこの責任者は自分のミスであると責任を取って、私に軽く知らせただけでした。しかし、このことは私に永遠の教訓と人への広大な寛容を残したと思います。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/9/276447.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/7/24/141218.html)
 
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