【明慧日本2013年8月5日】すべては明慧ネットのおかげでした。初めの頃はあまり明慧ネットにアクセスしませんでしたし、アクセスしても師父の新経文が出たかどうかを確認するだけで閉じていました。最近になって、私はほとんどの修煉体験の交流文章を全部読みました。不思議に、毎回の交流文に書かれたことは自分が今修煉で直面している問題と全く同じもので、かつて自分が経験した問題や近い将来自分が遭遇する問題でした。疑問を抱いていた問題もあり、回答を得ることができました。
『精進要旨』「時間との対話」の中で、師父は「彼らは人生の目標を見つけることができないため、法を学びに来たのですが、この変えたくない認識を抱いているのです」と書かれています。これはまさに私の状況です。私は幼い頃からあまり明るい子供ではなく、性格は非常に内向的で悲しむことが多く、人は何のために生きているのかを常々考えていました。以前、仏教の書籍を読んで回答を探しましたが、見つけることは出来ず、「道蔵」を読んでも回答を見つけることができず、心は空っぽでした。別に大きな壁にぶつかったことはありませんが、人生は何のためにあるのかとよく考えていました。
今考えると、自分が今まで真相を伝えることにしても、「三退」(脱中国共産党及びその関連組織のこと)を勧めるにしても自分自身のためにという心があり、自分の円満成就のためにやっており、慈悲の心は少なかったのです。真相を聞かない人に会った時や、「三退」を拒否する人に遭遇したらしばらく落ち込んでいました。落ち込んだ原因は自分の修煉の「成績」を気にしており、その人が救われなかったことを考えず、相手に不満を抱いていました。常人の心に影響されて、心の深いところに自分が責任を負いたくなく、責任を担うことを怖がっていたのです。師父は縁がある人を私に目の前まで送っておられたのですが、自分は知り合いの人にだけ真相を伝えていました。やっているうちに私が分かったのは、もし心の中で本当にその人を救いたいというという心があったら、仮にその場でうまく話せなくても相手は自らやって来て真相を聞いて救われるのです。師父の法身と護法の神も助けてくれるのです。人を救う心があまり固くない時、効果は良くないのです。
私はますます法の力を感じるようになりました。小さい時から何をやっても長く続きませんでしたが、法輪功の修煉だけはこの一年、倒れながらも歩き続けました。これは法の力が無くては絶対に出来ません。
私は修煉体験の文章を書きたいとずっと前から考えていましたが、様々な心があってずっと書くことができませんでした。自分の修煉時間も短く書くことはないと思っていました。明慧ネットで最近は初心者の修煉体験の文章が多く見られるようになり、私も書こうと思いました。特に、この間の「真相を作文と編集する中で自分の誓約を実現する」という文章を読んで大きく激励されました。私は小さい頃作文が好きでした。しかし、自分が書く交流文はあってもなくても良いと思っていたのでした。
この文章は私の一年間の修煉体験を書いたものですが、同修達のご指摘をお待ちしております。最後に「自由門」、「無界」などのネット閉鎖を突破するソフトウエアを開発してくれた人々に感謝を申し上げます。私はネットで真相を知ることができ、修煉を始めることができました。多くの人々が真相を知り救われることを期待しています。様々な心をまず抑えて大法の本を読めばすべてが分かります。法輪功は本当にどのようなものなのか、自ら判断するためにぜひこの本をお読みください。
(完)
注:[1]李洪志師父の著作:『轉法輪』