明慧法会|十年の風雨と辛酸の中、法を正す時期に心を浄化する(一)
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文/中国河北省の大法弟子

 【明慧日本2013年9月7日】偉大なる師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 この交流文章を書こうとペンを手に取った時、私は既に顔一面の涙でした。今まで経験した事の数々が目に浮かび、後悔の涙、苦しみに耐えた涙、感激の涙、そして師父を思う涙が混ざりました。今回の第七回大陸大法弟子によるネット法会を機に、私は自分の修煉過程を以下の三つの部分に分け、それを以って師父にご報告し、同修の皆さんの慈悲なるご指摘を仰ぎたいと思います。

 一、法を得る

 自分が法を得る過程を思い出す度に、私は自分の悟性の低さを悔やみます。事情はこうでした。私の主人は96年に大法の修煉を始め、当時私は既に会社を辞め、自営業をしていました。私が出張の為、バスに乗って北京へ向かう途中、バスの窓ガラス越しに、丸くて回っているものが見えました。その綺麗なものは私が北京に着くまでずっと伴ってくれました。出張から家に戻り、私は主人にこの出来事を教え、主人は『転法輪』を開き、私に法輪の図を見せながら、「これではないですか?」と聞き、私は「これです。しかし回っていました」と答えました。主人は「あなたは縁があるから、法輪功を習ってみたらどうですか?」と勧めました。私は「時間がないです。それに気功には興味がないし、あなたが習うのは別に構いませんよ」と答え、一回目の法を得るチャンスを逃しました。

 その後、ある日曜日の午前、私はリビングでセーターを編んでいました。主人は寝室で師父の説法を聞いていました。その時、私は師父が蓮に乗ってわが家に来られました。蓮の上で微笑みながら私を見つめている師父を見て、急いで主人を呼びました。「あなた、早く来て、あなたの師父が私達の家に来ましたよ」。主人は急いでリビングに来て、「どこ? どこ? なぜ私には見えないのですか?」と言いました。「あなたの師父が家まで来ているのに、見えないって失礼じゃないですか?」と私は言いました。主人は「本当に見えませんよ。あなたは天目が開いているから見えるのです。こんなに深い縁があるから、早く法輪功を習いなさいよ」と言いましたが、私は主人の話に従わず、天目が開くとは何かも分からず、再び法を得るチャンスを逃してしまいました。

 1996年の秋のある日、法会があるので、主人は私にこう言いました。「今日、あなたは特に用事がなければ、子供を連れて私と一緒に法会に参加しませんか。地方から来られる同修もいます」。私は法会とは何か知りませんでしたが、反対せず主人と一緒に参加する事にしました。その時の法会はあまり印象に残っておらず、ただ主人に寂しい思いをさせたくなかったから同伴しただけです。その日の深夜、私は家中が真昼のように明るく、師父が銀色の服を着て自ら私の体を浄化しに来られ、私の体のよくない部分の業力を取り除いていくのをこの目ではっきりと見えました。私は急いで主人を起こし、言いました。「早く起きて、あなたの師父はまたわが家に来ました。私の体を浄化していますよ」。主人は、「こんなに暗くて、何も見えませんよ」と言いました。私は「暗いですか? 真昼より明るいですよ」と言いました。主人が照明をつけた途端、私は何も見えなくなりました。今回、私は自分の目で師父が私の体を浄化して下さるのが見えて、その後、私の持病の数々(リウマチ、座骨神経痛、婦人病など)が消えました。度々師父が現れました。私はそれでも大法修煉に入りませんでした。

 数回に渡り師父が見えても大法の修煉を始めなかった自分を思うと、その悟りの低さを後悔してなりません。

 私は主人の修煉をとても支持し、家庭内外の一切の事を自分でこなし、彼がもっと大法を広める時間的余裕を取れるようにしました。私が暇になった時、主人は『轉法輪』の法理、即ち、良い事をし、いつも他人に優しく接するようにとのことを私に教え、それを多く聞くにつれて、私もいつの間にか『転法輪』の教え通りにするようになりました。

 1997年、私は北京の客に送った製品に品質問題が発生し、客から3千元の弁償を求められました。私は事情をメーカーに説明しましたが、メーカーからは「一旦工場から出たものには責任を負わない」との返事が返ってきました。私は主人が言った『転法輪』の「いつも忍耐し、他人の事を先に考える」との教えを思い出し、メーカーと議論せず、家から現金3千元を用意し、自ら北京の客に渡してきました。

  1998年、私は某鉄鋼会社から貨物を引き取って、手元の貨物引替証と倉庫の出庫証明を確認しなかった為、貨物を北京の取引先に届けてからやっと気づいたのですが、私は1トン近くの貨物を多く引き取っていました。私は余分の鋼材のお金を小切手で鉄鋼会社に返しました。会社の責任者は感慨し、こう言いました。「あなたのような金を貪らない人は本当に少ないです。言ってくれなかったら会社は何も知りませんでした」。「私の主人は法輪功を学んでおり、彼はいつも『轉法輪』という本を読み聞かせてくれますが、私はその本の教え通りにしただけです」と私は言いました。責任者はこう言いました。「法輪功は素晴らしいです。次回来るとき、その本をご主人から借りて私に見せて下さい」。このことは、後にその責任者が法を得る基礎を築きました。 

 このような事は一件に留まらず、後に、私は以前鉄鋼会社から多く引き取った貨物の代金も返しました。

 1999年「7.20」、私は子供と一緒に、法を実証する主人と同修を北京に車で送った為、当日は北京天安門警察支局に拘禁され、地方に戻ってから現地の公安警察や居民委員会によって、そのまま洗脳班に送られました。彼らは北京行きの件は私が組織者だと言い、凶悪な警察らは何度も私に供述書に署名することを強要しましたが、私は最後まで拒絶し、10日間の洗脳教育が終わった後も私は署名しませんでした。 

 2000年初冬のある夜、私は主人と一緒に、子供を連れて北京へ法を実証しに行く同修達を自家用車で送ってあげました。彼らは現地の公安警察に捕まり、色々な拷問を受け、どのように北京に来たかを聞かれ、そのうちの一人の同修は主人のことを話しました。その後、凶悪な警察は私の家まで押し入ってきて、不法に家財を差し押さえ、金庫の中にある数万元の現金や預金証書、大法の書籍を奪い取り、しかも私の銀行預金口座まで凍結し、主人を誘拐して留置場に拘禁し、そして私の自家用車を取っていきました。その晩、私は六歳の子供を抱き、天が崩れ落ちたように感じ、とても怖かったです。窓越しに真っ暗な夜空が見え、ぐっすり眠れない子供を目にし、そして留置場で非人間的な拷問を受ける主人のことを思い、私の心は泣いていました。ようやく夜が明けて、私は自分の白髪が増えたことに気づきました。顔を洗い、子供を人に預けてから、私は単車で警察署に向かいました。あまりにも早く着いた為、まだ出勤時間になっていないので、私は政保科に行って一人の当番に主人の行方を聞きました。彼は主人が前夜に既に留置場に送られたと言いました。出勤時間になってから、私は政保科の科長に主人と会わせるように頼みましたが、彼はきっぱり断りました。その後、私は毎日彼の所に行き、警察署や彼の家まで訪ね、朝5時頃に彼が起床する前からドアを叩き、人と車を返すよう要求しました。数日後、彼は私から3000元を巻き上げてから車を返しましたが、どうしても主人に会わせてくれませんでした。今度、私は局長に訴え、最後に彼はある警察に命じ、私を連れて主人に会いに行かせました。40日後、主人は留置場から洗脳班に移送され、そこで100日間拘禁され、更に5千元を巻き上げられてから家に帰されました。

 2001年から、610弁公部や政保科の凶悪な警察たちは邪悟者達を連れて、主人に会いに我が家を頻繁に訪ね、私はその都度彼らをそのまま返しました。主人を保護する為に、私は昼夜を問わず、単車に乗って大量の真相資料を配りました。政府や警察署、各企業、居民地区、農村の一戸一戸に私の足跡が残っていました。私がこのようにすれば、主人は安全になると思ったゆえの行動でした。

 2002年10月のある夜、610弁公室の頭目と公安局の副局長は、自ら主人を訪問したいと言い、私の家を訪ねてきました。私は遠慮なく断り、彼らは恥知らずのごろつきで、人の家財を勝手に差し押さえ、人を勝手に殴るなどの行為はいずれ罰が当たると言い、主人に絶対合わせないと言いました。二人の悪人は怒って帰りました。

 一カ月後、主人は親戚の家で公安局に不当連行され、私は情報を知った後、すぐに公安局に行って、翌朝の2時半ごろに主人を家に連れ戻すことが出来ました。8時頃、私は再び公安局に行き、副局長を叱責しました。

 当日、公安局は十数台のパトカーを動員し、刑事警察大隊と政保科の凶悪な警察は私を公安局まで不当連行し、公安局の副局長自らの命令だと言いました。政保科に着いた後に、政保科長と刑事警察の大隊長は有無を言わせず私を殴り、殴りながら、私が彼らの上司を尊敬しないからこのような仕打ちを受けるべきだと言いました。私はこう答えました。「あなた達は法律執行者として法を犯しており、私は上告します」。凶悪な警察たちは手を止め、私に紙とペンを差し出し、法輪功についての認識を書き出すよう要求しました。私は「書けません。学んでもいないのに。学んでいる人に書かせなさいよ」と答えました。次に、彼らは私に法輪功や師父を罵るようにと言われ、私はキッパリと断りました。深夜になって、沢山の血を吐き出した私をみて、責任者は怖くなって、私を救急病院に搬送しました。ある警官は私に、電信柱にぶつけたと主人に伝えるように言いましたが、私はそのまま事実を主人に伝えました。彼はそれを聞き、凶悪な警察らを激しく非難しました。夜が明けて、警察らは再び私を公安局に連行し、再度私に法輪功についての認識を書くよう言いましたが、私は拒否し、その晩私は留置場に送られてしまいました。

 留置場にいる間、私は地方の3人の大法弟子と知り合い、彼女たちは私に『洪吟』を暗唱することと、邪悪を暴露することは真相を伝えることであると教えてくれました。こうして、私は留置場の中で、江沢民グループがいかに法輪功や大法弟子に迫害を行っているのか、私が見た、聞いたことの全てを書き出し、20ページ近くの文章を書き上げました。

 2カ月後、地方から来たこの3人の大法弟子のうち、2人は不当な労働教育を強いられ、もう1人は他の場所に移送され、監獄には私だけが残されました。私は彼女達が教えてくれた『洪吟二』の「正念正行」と「神路難」を繰り返し暗唱し、真相伝えのことも覚え、毎日警察にされた迫害の内容を書き留めました。そして、彼らがいかに大法弟子に迫害を行っているのか、法輪功がいかに人に良い人になるよう教えているのかを書き出し、所長や当番の警察に送り、刑事犯たちにも送り、一日も欠かしませんでした。日に日に、真相が分かって来る人が多くなり、当番の刑事犯がご飯を運んで来るとき、「法輪大法は素晴らしい!」と言ってくれました。私は笑いました。しかし、そのときの私はまだ、それが真相を知った後に衆生が内心から発した喜びの声だとは知りませんでした。

 1カ月後、私は国保大隊(もと政保科)隊長に自ら家に送られました。

 2003年のお正月が過ぎるや否や、公安局国保大隊の警察らは偽の理由をつけ、私を洗脳班まで誘い出し、試験を行うと言って、法輪功を中傷する何枚かの答案用紙を持ってきて、私に回答させようとしました。私はその場でそれを受け取って破ってしまいました。610弁公室の頭目と公安局の副局長は怒って、再び私を留置場に送りました。これは彼らが前から計画していたことでした。

 今回、私は公安局の国保大隊で拷問を受け、法輪功修煉者として断定されました。同年7月、私は1年6カ月の不当労働教育を命じらました。

 2004年、不当労働教育を終え、帰宅した私は大量に学法し、やっと法輪功とは何か、師父はどんな人なのか、自分が世に下った責任と使命は何なのかを知りました。私は大法を得るのが遅すぎたことを悔やみ、自分の悟りが足りないことを悔やみました。師父は私を地獄から救い上げ、きれいに洗った後に、また何度も私に他空間のすばらしい光景を見せ、私を大法の中にぐっと引っ張ってくださいました。

 (続く)

 (明慧ネット第7回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/11/5/231942.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/11/17/121460.html)
 
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