明慧法会|十年の風雨と辛酸の中、法を正す時期に心を浄化する (二)
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文/中国河北省の大法弟子

 【明慧日本2013年9月7日】

 二、成熟の過程

 私が真に人間の観念を変えたのは、2004年に労働教養を終えた後でした。ある日、派出所から人が来て、主人に保証書を書きに来てほしいと言われ、私は主人が再び不当に連行されるのを恐れ、警察が帰ってからすぐに主人の会社に向かい、彼の上司に事情を説明して、数日間主人に避難させてほしいと頼みました。上司はすぐに承諾し、「いいですよ。私も知り合いに頼んでこの件を終結させてみます」と言ってくれました。私は早速タクシーで主人を友達の家に送りました。翌日学法の際、私は突然悟りました。主人の上司も、派出所の警察も救われるべき衆生であるのに、法を正す時期の大法弟子として、どうして衆生を放っておいて自分だけ隠れるのでしょうか? 隠れるのは恐れる心があるからではありませんか? 恐れる心は私心であり、旧宇宙の法理ではありませんか? 新宇宙の法理では、他人を先に考え、無私無我になるのが正しいのです。私はこれを悟り、また主人を家に連れて帰りました。

 2005年、私は今まで受けてきた迫害の内容を書き出し、市内の同修にネットに載せて貰いました。凶悪な警官達が私に対して行ってきた迫害の事実を暴露するのは、私達の地区の他の大法弟子にこのような悪行が行われないためですし、警官たちの未来のためでもありました。文章が発表されてから、『明慧週報』やパンフレットもその内容を転載し、私達の地区の邪悪を強く震え上がらせる効果を発揮しました。

 真相資料を配布するとき、私も功能を使えるようになりました。ある夜、私は、『九評共産党』のDVDや書籍、『明慧週報』を千部ぐらい持って、親戚のいるとても遠く離れた農村に配りに行きました。9時半過ぎ、セットした資料を持って、私は親戚の自転車を借りて村中を回り始めました。ある村に着いて、資料を配り始めるや否や、一匹の犬がけたたましく吠え出しました。私が「私は李洪志師父の弟子です。衆生を救うために来ました。私が行く所の犬は吠えません」と一念を発すると犬は本当に吠えなくなり、私は順調に手元の資料を全部配ることができました。その後、親戚の家に寄って資料を補充し、次の村に向かい、翌朝の4時過ぎ、周辺の村の全てに資料を配りました。少し休憩を取った後、私は5時半ごろ始発の汽車に乗って無事に家に戻りました。

 ある夜、私は家の近くで資料を配り、一冊の『九評共産党』をある家の庭に置いた途端、その家の主人がオートバイに乗って帰ってきたのを見ました。私は「彼に私が見えないように、私は他空間から出て行く」という一念を発しました。。私は縦方向の空間から出て行き、彼には見えませんでした。資料を配るとき、例え真冬でも私は一度も寒さを感じたことがなく、全身はいつも温かかったのです。

 2006年、我が家は資料拠点を設立しました。ある同修がコンピュータを設置してくれ、自分の家にあったプレゼントのレノボのプリンタを繋いでくれました。しかし、私達2人のどちらもその使い方を知りませんでした。私は大法小弟子である自分の子供に使ってみるようにと言うと、子供は明慧ネットのホームページを開きました。師父が山中で静座されている写真が目に入ってきたとき、私達は感動し、私は涙が溢れました。子供が週刊や週報をダウンロードし、一冊目の週刊と週報を印刷して出したとき、私達は再び喜びを覚えました。これは師父が大法小弟子に与えられた智恵によるものだと思いました。

 同修から貰ったプリンタは印刷のスピードが非常に遅かったので、私は電気屋から白黒のレーザー印刷機を買ってきました。当時、私達の地区では資料拠点が多くなかったので、私は子供からダウンロードや印刷の方法を習い、毎回、自ら資料を作って各学法グループに送りました。ある冬、大雪が降った直後、師父の新経文が発表され、私は徹夜で資料を印刷し、翌朝早く、雪の中を自転車で各グループを回り資料を届けました。同修達は雪の中で届けられた師父の新経文を見て感動の涙を流してくれました。私は全身が温かく、少しも寒さを感じませんでした。お昼の12時過ぎにある同修の家に着いたとき、ちょうど皆が昼食を摂っていました。一緒に食事をするように勧められましたが、私は同修に迷惑をかけることになると思って、「お腹は空いていません」と答えました。家に戻ったとき、すでに午後3時近くになっていました。私は子供にお腹が空いたかどうかと聞くと、子供は、「お母さんが同修のおばさんたちに新経文を届けに行っている事を知っていたよ。お腹は全然空いていないよ」と答えました。私は素早くラーメンを作ってあげました。

 最初に資料を作り始めた頃、私には恐れる心がありました。近隣にプリンタの操作音が気づかれないよう、真夏でも窓を閉め、カーテンを閉め、大量の資料を作り終えた頃には私はいつもびしょ濡れの状態になりました。また、電気料が他人より高くなれば中共に資料作りのことを知られるのを恐れ、私は冷蔵庫の電源も切りました。いつも戦々恐々の状態でした。

 ある日、学法後に突然悟ったのですが、ここは私の家で、何をしても私の自由です。他のことを考える必要はなく、恐れてはなりません。大法弟子である私は法を正す師に手伝い、宇宙で最も正しいことをしています。それからと私は正々堂々と資料を作り、使いたければいつでも使いました。プリンタ販売店の店員からインクの補填方法を習い、その店員の三退の声明発表も手伝ってあげました。

 2006年5月、ある年配の同修が留置場に不当に連行されました。私は真っ先にネットで暴露しようと思い、タイピングのできる同修に情報をネットに打ち込むよう頼みました。しかし、彼は恐れて、タイピングをするどころか、プリンタも隠すようにと言いました。なぜなら、その数日は、家の真下の国道で、数歩置きに多くの警官が配備されていました。しかし、私はできるだけ早く同修を救出したいことしか考えず、自分自身で取り掛かりました。タイピングのできない私は一通の情報をネットに掲載するのに2時間以上かかりました。私は徹夜で多くのステッカーや真相資料を作り、師父の加持を実感しながら、涙が流れてきました。その後、私は周囲の同修に資料を届け、皆と一緒に資料の配布に取り掛かり、強く邪悪を震え上がらせました。凶悪な警官たちはその家族から強請った金銭をそのまま返してくれました。事後に知ったのですが、路肩にいた警官達は、地方企業の視察に来ている高官を警護するために配置されたものでした。私は同修を怨まず、自ら専門学校へ行って、コンピュータの操作方法や応用、そしてタイピングも学びました。

 今、私の家には白黒のレーザープリンタ、エプソンのプリンタ、キヤノンのプリンタと書き込みドライブがあって、インクの補填も全て自分で行い、私が版面を印刷し、主人は書き込みドライブで刻みます。これらの設備は私たち自身が使う以外、時には協調人の同修も使います。資料拠点が増えるにつれ、数十冊の週刊を作っていたのが、今は毎週2冊にまで減りました。 

 今日に至り、たとえ真夏でも、我が家はすでに5年間も冷蔵庫を使っていませんでした。もう慣れてきたのです。我が家の大法小弟子も風雨の中ですくすくと育ってきました。

 (続く) 

 (明慧ネット第7回 中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/11/5/231942.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/11/17/121460.html)
 
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