学法と集団学法において極端に走るいくつかの現象
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年11月29日】ずっと前から、現地の学習者の間で個人で学法する時でも、集団で学法する時でも、極端に走るいくつかの現象が存在していることに気付いていましたが、ますますひどくなって、混乱を招くまでになりました。私は心の中で本当に心配しています。今日はそのことについて自分の意見を述べたいと思いますが、不当なところがあれば皆様の慈悲なるご叱正を仰ぎたいと思います。

 一、個人が学法する時の極端に走る現象

 一部の学習者は執着心に駆使されて、学法をする時、いつも文の一句一句、ないし一文字一文字の背後の内包を掘り出そうとします。「どうして他の人は本を読んだら法理が分かり、言い表すこともできるのに、私は何も分からなくて言い表せないのか」と悩む学習者もいます。「○○さんを見て、法理に対する理解を言い出すと、いくらでも話せます」と言うのです。自分の「法理に対する理解が低くて浅い」問題を解決するため、「修煉の次元が高い」と思われる同修にくっついて、いつもそのような同修に近づいて、差を無くそうとします。さらに常人の手段まで使って、そのような同修にちょっとした贈り物をあげたりします。一方、「修煉の次元が高い」と思われる同修に近づくことのできない学習者は嫉妬心が生まれ、同修の間に間隔が生じます。同修の間で交流を行ってもかまいませんが、修煉において近道を求め、より少ない労力でより多くの収穫を得ようという、私心と求める心を抱いてはいけないと思います。それは邪道に入るのに等しいことではありませんか? 大法に対する不敬でもあります。

 師父は『転法輪』に「実は功というものは煉によって得るものではなく、修によって得るものです。多くの人は功の伸びを追求して、練功のやり方にばかり気を使い、いかに修煉するかを重視していませんが、実は功はまったく心性の修煉によって得るものなのです」とはっきり説かれています。法理に対する理解も同じだと思います。大法を読んで法理が分かるかどうかは、学習者に対するそれなりの要求と基準があるのです。ただ読むだけで、漠然と「悟ろうとする」だけでは分からないのです。「三つのこと」をしっかり行わなければ、心を清浄にして、次元を高めなければ、法理が分かるはずがあるでしょうか? ただ家に籠って学法だけをして衆生済度をしない学習者は、どうしてそのような状態になったのでしょうか。恐れる心があって、修煉において近道を求める執着が一つの原因だと思います。

 二、集団学法の時の極端に走る現象

 集団学法の時、極端に走る現象について、以下に述べます。

 1、法を読む時に和尚の読経のように、ただ口さきだけで読んで頭に入らず、読むスピードがとても速い人がいますが、おそらく法の表面の意味さえ分かっていないと思います。

 2、他人と読むスピードや上手さ、流暢さを張り合います。集中力をただ朗読することに用いて、読んだ内容については頭に少しも印象が残っていません。時には自分の朗読のレベルを顕示したいため緊張して、読み違えたり、行をとばしたりしてしまいます。

 3、量だけを求めます。毎回集団学法の時、必ず何講を読み終えるという目標を立て、達成させるためにひたすらに読んで、読み終わったら解散します。時には早く帰りたい学習者がいれば、非常に速いスピードで読みます。多くの学習者はそのような集団学法に参加しても向上できないと感じて、行きたくなくなっています。

 4、字を読み違えて注意されると不機嫌になる人がいて、メンツが潰されたと思い、指摘されても改めない人がいます。これらの原因でトラブルが起きて、だんだんと読み違えても、周りから注意しなくなります。また、字をよく間違える人を見ていらいらして、注意する時に態度が悪い人もいます。

 5、自己に固執します。経文に括弧の部分があり、括弧の中の内容に対して読むか読まないか、どの部分を読むべきか、どの部分を読まなくてよいか、言い争って互いに譲りません。師父は弟子の質問にすでに回答されました。経文が始まる時、もしくは経文の途中の(全員起立して、長時間に熱烈に拍手する)、(拍手する)、(皆が笑う)、(師父が笑う)、(手振りをする)などは読む必要はないが、括弧の中に説法の内容があれば読まなければなりません。経文の最初と最後の署名にある「李洪志」の字を、読む必要はありませんが、経文の中で「李洪志」の名前に触れる時は、読まないといけません。上記の場合、全部読むべきだと主張する人がいたり、全部読むべきでないと主張する人もいます。そのために、一部の人は何度も明慧ネットに質問して返答を求めたのですが、ずっと返答を得ていません。いまだに論争を続けていて、混乱をもたらしています。

 6、自分の正念が強いと顕示して、全体の安全を疎かにします。一部の学習者は毎回の集団学法の時も携帯電話を持ってきて、しかも電源をオンにしています。電話がかかってきたらすぐ出て、少しも配慮しません。周囲の同修がどんなに注意して制止しても、当人は意見を聞こうとせず、自分は正念が強くエネルギー場が大きいので、徹底的に邪悪の迫害を否定できると主張します。

 一部の学習者は自分の家の中に居る時も、同修の家や資料点に行く時も、携帯電話の電源を常に入れた状態にして、同修と交流するときも電源をそのままオンにしています。どんなに注意しても聞かず、勝手気ままにします。安全に注意しないのは技術が優れて現地の協調を担う学習者であるため、周囲の学習者もみんな安全に注意することが疎かになっています。現地でそのような技術を持つ協調人は、すでに数人当局に逮捕されています。

 集団学法の場所はほとんど学習者の家です。無私に皆にそのような環境を提供してくれる学習者は、大きなプレッシャーを抱えて苦労をしています。しかし、それを大切にせず、安全を考慮せず、廊下で大声で喋ったり勝手気ままに振る舞ったりする学習者がいます。一方、集団学法の場所を提供する学習者の中に、家に学法をしに来る人に金品を要求する人がいます。

 上に述べた法理に符合しない行為は、無意識の中で自己の修煉に対しても、全体の環境に対しても、大きな損失をもたらしていますが、なぜかまだ皆に重視されていません。私はそれを書き出して、皆さんに早く改めて頂きたいと願っています。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/11/276518.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/7/18/141117.html)
 
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