自己を放下して、大法の中に溶け込む(一)
■ 印刷版
 

文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2013年11月30日】10数年の修煉の中で、自分は良くできたといつも思っていました。厳しい迫害の中でも私は修煉を放棄していない、私は邪悪に屈服したことがない、私は同修を裏切ったことがない、私は邪悪に「転向」させられたことがない、私はずっと師を助けて法を正し、ずっと衆生済度のことを行っている……。しかし、こんなに多い「私」、「私」、「私」の中にどれほどの人心と自己に対する執着が含まれているか、私はずっと気づきませんでした。今日に至ってやっと目が覚めました。

 夢から覚めた

 ある日、現地の協調人Aさんが私にある事を相談しました。聞き終わって、私はあまり深く考えずに直ちに否定的な意見を出しました。彼女がその事の現実性を説明しても、私はきっぱりと否定し、彼女の提案は「私心と自己のためのもので、全体のためではない」と言って彼女を非難しました。数日後、別の学法チームでAさんは私を探しにきて、再度その提案を言い出しました。私はカチンときて怒り出し、「もうあなたに言ったでしょう。駄目なことは駄目なので、相談の余地はありません」と言いました。多くの同修の前で私たち2人は口論を始め、それぞれが自分の意見に固執して、どちらも譲歩しませんでした。本当に常人よりもレベルが低かったのです。同修たちは私たち2人を止めようとしても止められず、2人の喧嘩を見て、ため息をつきました!

 Aさんが帰った後、私たちは引き続き『ロサンゼルス市法会での説法』を読みました。私の順番になった時、怒りがまだ収まらず、心が静まる状態ではありませんでしたが、その場から逃げることもできないため、とりあえず読むしかありませんでした。隣に坐った同修が「この行からですよ」と注意を与えてくれたので、私は「すでにまったく指摘されてはいけないところまできている人がいます。私から見ても、もう言わなければいけないところまできています。マッチのように、こするとすぐに火がついてしまい、地雷のように、踏まれるとすぐに爆発してしまう人がいます。指摘されてはならず、言われると、承知しません。どんな意見も聞き入れられず、善意の、悪意の、意図的、または無意識的な指摘に対して、すべて受け入れられません。内に向けて探すことはなおさらしません。かなり深刻になっています」[1]の部分を読みました。心の中は震えて、口を閉じてしまいました。催促されて、引き続き読むと、「この関をこれから乗り越えられない人がいれば、皆さんに教えますが、それは大変危険なのです! なぜなら、それは修煉者にとって最も根本的な問題で、最も取り除くべきものであり、必ず取り除かなければならないものだからです。取り除かなければ、圓満成就することができません。常人が大法弟子のことを行なっているようなことにならないでください。皆さんは圓満成就するためであり、福報のためではありません」[1]という内容でした。

 私は驚いてぽかんとしてしまいました。師父の言葉はまさに私のことを言っておられるではありませんか? 10数年も修煉して、修煉者として最も根本的な問題、最も取り除くべきものでさえまだ取り除いておらず、私はあまりにも次元が低いのです! 師父に申し訳なくて、自分にも申し訳ありませんでした。その上、本来互いに協力し合って協調をとり、一つの全体として高まる環境をも邪魔してしまいました。当地区の同修たちが私に寄せてくれた望みと信頼にも申し訳が立ちませんでした。執着を取り除かずに、自分は他の同修より良く修煉できていると自惚れて、他の同修を叱責したり非難したりしていました。相手だけを変えたくて自分を変えたくない旧勢力と、どこが違うのでしょうか? その時、涙がほろほろと流れて、悔しくてたまりませんでした。そのときから、私は反省して、内に向けて自分を探し始めました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/5/276240.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/7/21/141157.html)
 
関連文章