相手のために考えることを覚えよう
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文/オランダの大法弟子

 【明慧日本2013年12月8日】師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 例年と同じように、今年も私は神韻資料投函の協調を担当します。私の仕事は金持ちが住む地域を探し出して、地図を印刷して同修たちに配り、週末に同修たちを車に乗せてその地区に資料を配りに行きます。同修たちは一つの地区の投函を完成すると、電話で私に知らせ、私は皆を連れてまた次の地区に行きます。

 ある日の午前、新しい地図を同修Aさんに渡す時、この前の地域への投函は済ませたかと聞くと、「まだです」というので、「では、前の地域をまず済ませてください」と言うと、「今日は前の地図を持ってきていません」と言いました。同修Bさんに同じことを聞いても、Bさんも同じく終わっていない前回の地図を家に忘れたというのです。私は2人に「前の地図が終わっていないのに、なぜ私に伝えずに新しい地図をもらおうとするのですか。私にフィード・バックをしてくれないと、私は投函の状況を把握できないので、混乱してしまいます」と不満な態度で話しました。

 発正念の時も、私の頭の中に2人に対するマイナス的な考えがまだ残っていました。それを取り除こうと試みたのですが、完全に除去することができませんでした。発正念が終わって、皆は駐車場に停めていた私の車に乗りました。車をバックする時、「パン」と巨大な音がして、車が後ろの物体に当たったと分かりました。下車して調べると、なんと不思議なことに車に何が当たったのか、その痕跡も見つかりませんでした。その音は私に「不満をこぼすのを止めなさい」という棒喝でした。一瞬にして、同修に対する不満や文句はすぐ消えました。

 去年の出来事から不満を言わないことの大切さを思い出しました。去年の神韻宣伝の時、ショッピングセンターで宣伝を担当するCさんは、私が担当する地域のショッピングセンターでの宣伝と並行したいと望み、私からすべての地図のコピーを受け取りました。その後、1週前に私たちがすでに投函した地区に、他の同修がまた神韻資料を投函したことに気付きました。そうなると仕事はダブって、後に行った同修の労力と資料も無駄になりました。明らかに、重複した仕事の指示はCさんから出されたのです。Cさんに確認した時、私は心の中の怒りを抑えきれませんでした。自分の担当部分をちゃんとやれば良いのに、なぜ私が担当する部分に首を突っ込まないといけないのかと、ぷんぷん怒って、Cさんがまるで私を邪魔しているように思いました。私は全く内に向けて探しておらず、彼に対するマイナス的な考えは旧勢力に私を妨害する理由を与えました。

 その後のある朝、目が覚めた私は厨房に行って何かを食べようとして、突然、目眩がして知覚を失いました。数時間後に意識が回復したら、自分は床に倒れていたことに気付きました。とても驚いたことに、床に多くの血があり、恐らく転んだ時に後頭部が床にぶつかって出血したのだと思います。私はすぐ「自分は修煉者だから、大丈夫だ」と思ったのですが、依然として目が眩んで立つことができず、煉功する気力もなく、一日中ベッドに横たわって、発正念をし、師父の説法の録音を聞きました。その数日間、たくさんの悪い考えと欲望が次々と頭に涌いてきました。他の空間ではきっと正邪の大戦が進行していたのだと思います。

 家を出られなくなった私は、新しい地図を同修たちに渡すこともできないため、投函の仕事は全面的に中断せざるを得ませんでした。ある同修が電話をかけてきて、私にいつ出てこられるかと聞くので、私は「私の今の状況を知らないのですか、私はこんなに衰弱していまだに歩くことができないのに、まだいつ出てこられるかと聞くのですか」と言い返しました。

 師父の慈悲なるご加護がなければ、私はずっとベッドから離れられなかったでしょう。1週間後、病院にも行かなかった私は全快して、以前のように神韻宣伝のために走り回りました。「これからの神韻宣伝の中に、どんなことがあっても、私は決して不平不満をこぼさない」と私は厳しく自分に言い聞かせました。私にとって、その怪我は一つの深刻な教訓でした。

 その後、私は同修たちのニーズに合わせて、みんなを目的地まで乗せていったり、迎えに最寄り駅まで行ったりしました。時々愚痴の言葉が私の脳裏に現れます。例えば、「あなたは自分で駅まで行ったほうが速いかもしれません。私の家は町の反対方向にあるので、あなたたちを迎えに行くのは、倍以上の時間がかかります」などです。そのような考えが出る時に、私は直ちに否定して、自分に「もっと相手のために考えよう」と言い聞かせて、車で同修の送迎をしていました。同修たちは私を見るととても喜んで、私も、他人に喜んでもらえることから、自然に心の底から嬉しくなりました。同修たちと一緒にいると、大家族のような団欒を感じます。

 神韻宣伝の期間に、現地で使える車の台数が少ないため、私は時々各ショッピングセンターに資料を運ぶことを依頼されています。当時、一日に同時に3つ、4つのショッピングセンターで宣伝を行っていました。どのセンターも午後5時に閉めるので、通常、同じ時間帯に私は2つのセンターに行かなければなりません。センターの室外に宣伝ブースを置いているところもあって、とても寒いのです。次の場所の同修を寒さの中で長く待たせないために、私はできるだけ速く資料を運んでいきます。ある日、一軒目のセンターに到着したら、私が次のセンターに行くのを知らないのか、片付けている同修の動作はとても遅く、私が焦るほど、彼の動作はますます遅く見えました。私の心に不満がつのったのですが、できるだけ優しく彼に催促しました。次のショッピングセンターに着いた時、私は予定より1時間も遅れました。1時間も待たされた同修はきっと文句をこぼすだろうと思ったら、彼らは久しぶりに古い友人に会ったように親しく挨拶してくれ、なんの文句もありませんでした。私はとても感動して、円容している場に包まれた暖かい感じがしました

 神韻宣伝と公演の期間に、皆は集団学法が重要だと分かっています。佛学会は日曜日の午前を全国の集団学法の時間と決めました。その前に、同修の間で集団学法を土曜日の夜にするか、それとも日曜日にするかをめぐって意見が分かれました。結局、多くの同修は車を持っていないので、夜の学法が終わった後では終電に間に合わないため、土曜日の夜に学法するアイデアは却下されました。一部の人は集団学法に参加したくなく、学法の場所で資料を受け取ってからすぐ配りに行きたいと言い、また一部の人は参加しますが、『轉法輪』だけを読んで、交流に参加せずに、直ちに資料を配りに行きたいと言います。また、私を含む一部の人は集団学法がとても重要だと思い、日曜日に終日かけて学法と交流をするべきと主張しています。「こんなに意見が分かれてしまった」とマイナス的に思った途端に、すぐに私は考えを変えました。私たちは週末にしか神韻宣伝に出られないので、日曜日を一日室内での学法に費やすと、多くの事ができなくなると主張した同修の意見が正しいと思うようになったからです。

 私はよく食事をしに実家に帰ります。父と母はよく口論します。2人とも自分が正しいと思い、自分の考えを相手に押し付けようとしています。大法修煉者として、私は両親に私の習った法理を教えて、「もし双方とも自分が正しいと思ったら、一体誰が正しいのですか? 誰でも一歩退くことをしなければ、問題は永遠に解決できません」と言いました。

 翌朝、第二功法をやる時、両親の対立、学法時間をめぐる同修の意見の対立が同時に私の脳裏に現れました。二つの事の性質は同じでしょうか、誰が正しくて誰が間違えたか、同修たちの言行は常人である私の両親ととても似ています。涙が出て、私は1時間ほど泣きました。同修の間で学法時間をめぐって口論したことのために心を痛めたからです。その論争に関連する数人の同修に手紙を書くことを決めて、それから、私たちは学法時間を早めにしました。

 師父は『精進要旨』「佛性に漏れなし」でこう説かれました。「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです!」

 私は数人のオランダの同修と一緒にヨーロッパ天国楽団に参加しています。普通、参加人数分の宿泊、食事などを手配するため、パレードを開催する前に皆は各自、ネットで参加登録をする必要があります。数人の年配学習者は登録のやり方が分からなくて、いつも私に頼んでいますが、彼らに宿泊、食事などの要望を聞こうとする時、なかなか電話で連絡が取れません。そのために、頼まれた時、私の心にはいつも少し不満があって、「それほど難しくないことなので、自分の子供に手伝わせれば良いのに、いつも同修に依存するなんて」と思ったりしました。

 師父が『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』に説かれた「不愉快なことに遭うと、機嫌が斜めになる人がいますが、それならあなたはほかでもなく、人間ではありませんか? 何の違いがあるのでしょうか? 不愉快なことに遭うときはちょうど、自らを修めるときであり、心を修めるときです」を読んで、相手のために考えて助けてあげないといけない、と私は意識しました。

 天国楽団から新しい帽子の予約購入の知らせが来た時、年配の同修たちに声をかけるかどうか迷いました。彼らはきっと同じ電子メールを受信していますが、以前の経験によれば、彼らはメールを見ていないか、見ても分からないと言います。予約購入に間に合わず、彼らが古い帽子を被ってパレードに出たら、全体のイメージが損なわれると考えて、結局、私は彼らに帽子の件を伝えました。帽子のサイズなどを教えた後に、案の定、彼らは私に予約手続きを依頼して、私はその夜に予約しました。しかし、翌日彼らから連絡が入って、「サイズを変更したいです。今メールをみたら、帽子のサイズが、あなたが言ったのと違うからです」と言いました。

 私は少し嫌になったのですが、我慢して「すぐにサイズ変更の手続きをします」と答えました。その時に、すべての愚痴が脳の中にどっと入りました。どうしていつも他人に面倒をかけるのでしょうか、あなたたちが早くメールを確認したら、自分で予約することもできたのではありませんか。今私が変更したら、協調人のほうにも面倒をかけるではありませんか。もしかして、自分の考えに問題があるかもしれないと気付いて、内に向けて探し始めました。マイナス的な考えを捨てて、同修たちの良いところだけを考えてみました。その時、私は涙が流れて、すべてのマイナス的な考えが吹っ飛んで、内心から彼らを助けたいという楽しい気持ちになりました。

 師父は『法輪大法義解』「長春法輪大法輔導員のための説法」で「我々の要求では、あなたが常人を超えて、完全に個人の利益を放棄し、すべて他人のためにするのです。その大覚者は何のためにするのですか? 彼はすべて他人のためです」と私たちに教えられています。

 物事の表面を見れば、ほとんど自分が正しいよう映ります。しかし少し深く見たら、実は、修煉は自分を修めるのであって、他人を修めるのではありません。私たちは同じく師父の弟子なので、同修間の対立を解消して、互いに大切に思うようになってほしいです。

 (2013年ヨーロッパ法輪大法修煉体験交流会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/6/277628.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/8/25/141686.html)
 
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