「性命双修」についての見解
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文/慧心

 【明慧日本2013年12月17日】明慧ネットの交流文章で、修煉してから若返り美しくなった例を読むたびに、とても羨ましく思いました。私は修煉してから若くも美しくもならず、かえって「あなたは、とても疲れているように見える」とよく言われます。

 どうしてだろうと考え、最初、自分にはまだ取り除かれていない虚栄心、顕示心、色欲の心があるので、それらの執着心を早く取り除かせるために、師父はあえて私に若くも美しくもない虚像を演化されたのだ、と思いました。だから、ずっとそれは「虚像」だと片付けてしまい、深く考えませんでした。しかし、歳月が流れて、修煉しない同級生や友人も私より若く見えるので、彼女たちに真相を伝える時、「性命双修」の言葉に触れる勇気がありません。

 修煉者が歩む道はそれぞれ異なり、同じ道はないので、これが私の修煉の道かもしれないと思いました。しかし、法輪功を修煉してから同年齢の人より健康で若い例はたくさんあるではありませんか? 「三つのこと」を私はずっとしっかりしているので、一体どこに問題があるのか、私はずっととても困惑していました。先日起きた小さな出来事を通じて、私は自分の不足がやっと分かりました。

 数日前、娘が学校から小さな花を植えた鉢をもらいました。娘はとても喜んで、じょうろで花に多くの水をかけました。しかし翌日、花も葉も萎れてしまい、水不足のようでした。娘はまた多くの水をかけましたが、なんと3日目になると、花と葉は更に元気がなくて、枯れそうになりました。私は植木鉢を確認して、やはり水分不足が原因だと思いました。毎日水をやっているのに、どうしてでしょう。土を触ってみると、表面は濡れていますが、中は硬くて水分が浸透していないようでした。私がペットボトル1本分のお水を植木鉢にやって少し経つと縮んだ葉が広がり、半日経ったら完全に回復しました。ただ、花は傷んだようで、前ほど鮮やかではなくなりました。

 娘は「昨日と一昨日に私がかけた水は、どうして役に立たなかったの」と聞くので、私は「あなたがじょうろでかけたのは、外から水分を補給しただけで、根本から問題を解決していません。水分は根っこから吸収しなければならないの」と答えました。話し終わって突然、修煉も同じ道理ではないかと意識しました。修煉者が表面上だけで「三つのこと」をしているのは、じょうろで花と葉の表面に水をかけるのと同じだったのです。大法を心まで注ぎ込んでいなければ、きっと人心を取り除けず、根本から私心を変えることもできず、当然体にも奇跡的な変化は現れません。

 師父は『精進要旨』「警告の言葉」で「修煉の中で、皆さんは自ら真に着実に向上することによって、内面に巨大にして本質的な変化を生じさせているのではなく、わたしの力に頼り、外在する強大な要素を頼りにしています。これでは永遠にあなたの人間としての本質を佛性に変化させることはできません。もしも、みな一人一人が心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現であり─強大なる佛法のこの世での再現なのです」と、我々に教えられました。

 今になってやっと分かりました。精進とは、毎日『転法輪』を何講読んだか、何時間煉功したか、どれくらい大法のプロジェクトに参加したかではありません。大法を心まで注ぎ込み、いつも法理で自分の言行を指導して、本当に法の中に溶け込むことができるのです。形式上の修煉になってしまうことを避けてこそ、はじめて大法の強い力を得ることができます。内面からの変化は必ず肉体の表面に現れて、修煉者の年齢に関わらず、顔立ちが美しいかどうかに関わらず、きっと顔色はつやつやして元気一杯になります。その内面から自然に出た高尚な道徳、優しい態度はきっとより多くの衆生を救うことができるのだと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/5/28/274445.html)
 
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