文/台湾屏東の大法弟子
【明慧日本2013年12月28日】私は「情」という強い執着心で、随分回り道をしました。
夫は有能な人ですが、貧しい家庭環境で育ちました。私が彼と結婚しようとした当初、父にも、親友にも反対され、私は意地を通して彼と結ばれました。しかし彼は事業が成功した時に不倫に走り、そして無情にも別れて欲しい、自分の幸福を探させて欲しいと言いました。当時、3人の子供はまだ幼く、それを聞いた私は、天が崩れ落ちたかのようにショックを受けました。私は夫を恨みました。恩を仇で返す、彼の行為を恨みました。
私はこの「情」の関門を通過することができませんでした。私は法を学ぶことも、煉功することもできなくなり、最後には、完全に堕ちてしまって、常人と同じになり、更には多くの過ちまで犯してしまいました。しかし、慈悲なる師父は、この駄目な弟子を見捨てられませんでした。2010年、道に迷った私は呼び戻されました。私は毎日、明慧ネットにアクセスして、同修の文章を読みました。同修が正念を持って正しく行い、また称賛、感動に値する成果は、私の心に衝撃を与えました。私は、法を正す大きな流れの中に回帰しようと決意し、夫の不倫に対しても次第に気にしなくなりました。
法を深く学ぶに従い、環境もより良く変わりました。もともと子供のことに全く関心のなかった夫が、突然熱心になり責任を持つようになり、しかも子供の送り迎えもしてくれるようになりました。大法のことで忙しくしていた私は、後の心配がなくなりました。夫は私が大法のことに参与することも支持し、時には手伝いもしてくれました。修煉環境が良くなり、私はとても幸せでした。
私がこの「幸せ」に浸っていた時、母からの電話はまるで重い金槌で叩かれたかのように、私を目覚めさせました。母が夫と雑談していた時、夫は母に言いました。夫と不倫関係にある女性が夫に対して、責任を持って子供の面倒を見なければならないと言い、さもなければ、夫と付き合いたくないと言ったそうです。夫がこのように熱心に子供の面倒を見ていたのは、その女性から褒めてもらいたいため、ずっと付き合ってもらいたいためでした。その話を聞いて、私は爆発しました。夫の子供に対する優しさは、ただあの不倫相手の女性に見せるためだけのことで、夫の内心から発するものではありませんでした。
師父が『轉法輪』の中でおっしゃったように「往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[1] その時、私は憤慨してやみませんでした。心の底から彼を軽蔑し、二度と顔を合わせたくないと思いました。
母は私が大変怒っていることを知って、私を慰めました。母は「これは人生の試練で、気にすることはないよ」と言いました。私は怒りを押さえ、大声で「分かっています! 私達の師父もいじめる人に感謝するようにとおっしゃっています!」と言いました。その時……慈悲なる師父は私の記憶を開いてくださいました。この世に来る前、私たち2人のうち、1人しか法を得られないように旧勢力が按排したのです。そこで夫は法を得る機会を私に譲ってくれました。しかも肝心な時、私に向上を促すため、彼は敵役を演じることも約束しました。その一瞬、私は夫の決意が無私であることを直感しました。師父がおっしゃったその通りです。この世の道理はすべて反対です。
慈悲なる師父は過去に何回も説法で、あなたの敵を愛すること、あなたの敵を愛することができなければ、円満成就はできないという法理に言及されました。例えば『オーストラリア法会での説法』で、師父は「如何なる環境においても、如何なる情況においても、トラブルに遭った場合、善良の心、慈悲の心をもって全てに対処すべきです。自分の敵を愛することができなければ、圓満成就することはできません」とおっしゃいました。また、『カナダ法会での説法』の中でも「皆さんは常人を超越しようとしている人達であり、神は人間を敵と見ているのでしょうか? 常人の次元を超えた人は常人を敵として見てはいけません。ですから、あなたの敵を愛していなければ圓満成就できないと教えました」と説かれ、 さらに『ヒューストン法会での説法』の中でも「私はある日皆さんにこのようなことを話しましたが、あなたの敵を愛さなければ佛にはなれません」とおっしゃいました。
師父の啓示に感謝いたします。その時、私は完全に理解しました。現世のこの芝居では、人それぞれが演じる役割は全て、入念な按排によって用意されたのです。修煉の道では、良い人、良くない人に出遭います。彼らからの様々な試練を乗り越えてこそ、私達は初めて様々な頑固な執着心を取り除くことができるのです。
師父がまさに説かれたように「皆さんは良いことに出遭っても、良くないことに出遭っても、すべて良いことです。なぜならば、それらは皆さんが修煉しているからこそ、現れたことだからです。修煉者は、常人の心を持って、業力を持って、執着を持って円満成就することはできません」[2] 今回の試練を経て、私は正念でものを見ることが分かりました。また反対の理で世の中を見ることも習得しました。
修煉の道で良くない人に出遭った場合、まだ心が少し波立ちますが、しかし、すぐに自分は修煉者であることを意識して、慈悲で穏やかな心で対応できるようになりました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「シカゴ法会」