大法弟子になれたことは生命のこの上ない光栄です(一)
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ある若い女性大法弟子の修煉体得

文/河南省の大法弟子

 【明慧日本2014年2月3日次の文へ

 数日前は私の24歳の誕生日でした。往時を振り返って、師父が全能な方法で度々深く絶望した私をすくい上げ、浄化して下さったことを思い、感謝でいっぱいです。

 1989年、計画生育のため、生まれて間もない私は、農村の叔母の家に預けられました。1996年、母が大法修煉を始めたとき、私も家に連れ戻されました。それから私はよく母に付いて集団学法に行きました。まだ小さかった私は、いつも遊びに夢中でした。しかし、大法の種はその時からすでに私の生命の本源に深く根を下ろしました。

 修煉を始める――遠い昔の按排

 法を学んで、私はまず良い子になることを知りました。ある日、私が蒸しパンを買いに行ったとき、店の人は子供の私を見て、態度はとても酷かったのです。しかし、私は彼と同じようにしてはいけない、我慢しなくてはならないと知っていました。子供たちはみんな花を摘んだりしていましたが、私は花でも命があるから、花を傷つけてはいけないと分かり、花を取らないように自分を抑えました。時には、友だちに花を傷つけないように教えました。家では母が大変なのを見て進んで家事をしたり、掃除の手伝いをしたりしました。

 私の身にはとても不思議な事が起きました。ある日、私は水道の水がため池の中にとても美しい波紋を作っているのを見て、不思議そうに溜池に伏せて中の様子を見ました。突然、水滴は一つの大きな目となり、私にまばたきをしていました。私はその時大変驚きました。私はその目つきが清浄で無邪気だったことを今でも覚えています。法を習ってから、それは師父が私に植え付けてくださった真眼だと分かりました。

 また、家で掃除をしているとき、戸棚を拭いていたら、はっきりと女性が「ありがとう」と言った声が聞こえました。小さいときから私はあまり母と一緒に煉功をしませんでしたが、しかし、私の体質はとても敏感で、静功を煉る時、私は両手がはっきりとなにかの物の上に置いていると感じました。また一度、煉功し終わって休んでいたら、私の元神が肉体から離れ、重さを感じなくなりましたが、その経験は大変素晴らしいものでした。

 2004年の夏休み、私は二つの夢を見ました。一つは、ある人生で、私は太った優しそうなお婆さんでした。そのお婆さんは座って、独り言のように「ええ、私のこの生涯はどうやって過ごしてきたのでしょうか」とため息をつきました。この言葉の後で、私は辛くて激しく泣き叫び、夢から目が覚めました。この世の移り変わりを経験し尽くした言葉は私が法を得るため、生生世世の輪廻転生でどれだけの苦しみを味わってきたかを表していました。それから、私は今世の幼い頃に人生を深く認識した経験をしました。私が家に迎えられた時に、叔母が母になり、母は叔母になりました。6歳の子供はこのような思いもかけない異変に直面して、居候のような苦しい生活を強いられました。姉はよく私を殴りました。私が帰って来たので両親の愛を奪い取られるのを恐れていたのです。私は何をしても慎重のうえにも慎重を重ねました。しかし、いつもよい事もいつのまにか全部悪い事になり、結局、怒られ、軽蔑され、嘲笑されてしまうのでした。父は不倫をして、母は体が弱く、私はいつもとても愚かでした。学校でも家でも私はいつも一番馬鹿で、なにも出来ない臆病者で、いつもいじめられる対象でした。

 13歳で中学を卒業した私を両親は私の性格では人に苛められるのではないかと心配し、大人になったらどう生きて行けるかを心配しました。両親は私に専門的な技術をマスターさせ、将来子供を教える職に就くように決めました、子供と一緒にいれば、彼らは安心できると思ったそうです。

 小さい時の経験は私が情を取り除き、業を返すための按排でした。知恵を封じることは現代科学と各種の観念によって私の本性を汚染させないように、法を理解するのに障害をもたらさないためでした。その夢に引き続いて、私はその後、もう一つの夢を見ました。私はお正月の絵の中のめでたい子供のような年齢と格好でした。私は綺麗な水の上を飛んで、母の後についていきました。私が腕白で水中の小さなコイと遊んでいた時、岸辺には弥勒佛が現れ、にこにこして私を見ていました。手から1枚の金色の古代の天子の命令のような掛け軸を取り出して、上には「助師世間行」[1]の五文字が書かれていました。ここは、私の個人修煉と法を正す期間の修煉の転換点となりました。小さい時母は私を連れて法を学びました。だんだん成長して、法の貴重さを知り、私は積極的に真剣に法を学ぶようになりました。これらの夢は師父の私に対する励ましでした。しかしその時、法をまだ多く学んでおらず、それが師父と交わした誓約とも知りませんでしたが神韻を見て、私はようやく目が覚めました。

 その夏休みから、私は生まれ変わったと、すべての友人が言いました。師父は私の個人修煉を最高の位に押し上げてくださいました。常人を見ても、私は一目でその本源の「彼」が見え、この世の観念に覆い隠されていない「彼」の本性に「生命は法のために来ているから、早く目覚めましょう」と心から教えました。私は心から慈悲が生まれ、この紅塵の中で見失った生命のために悲しんで涙を流しました。あの頃、頭から出てくるあらゆる考えを、私は法の基準を用いて比較したとき、ほとんどの考えが執着心から生まれて来たことに気づき、それぞれの考えはそれぞれの執着だと分かりました。私は出来るだけ頭を静めて、勉強と生活以外、少しの人心も許さないように暇があれば、「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と念じました。

 その後、私は地方の学校に進学しました。そこで、母は学法チームを探してくれませんでした。私は学校に大法の本を持っていき法を習いました。学校に入ったばかりのとき、私は8人部屋の寮に住んでいて、2段ベッドの上のベッドで大法の本を読んでいました。ある日、私は本をベッドに置いたままトイレに行きました。ルームメートは私が法輪功の本を読んでいるのを知って、彼女たち7人は私を孤立させ相手にしなくなりました。それはその後私が彼女たちに真相を伝えた時に、初めて私に教えてくれたのです。その後、私は母の暗証番号が付く日記ノートに書き写した大法の本とMP3で師父の説法の録音を聞いて法を学びました。その当時、毎日最も幸せな時間は授業が終わって師父の説法を聞くことでした。昼休みに、私は1人で運動場に行きました。勉強する以外、1日で私は時には師父の説法を一通り聞くことができました。師父の慈悲なる声は私の本性に呼びかけていました。私は毎日精進して、充実していました。私は身の回りのすべての人に優しく対応し、いつか彼らに真相を伝えることができることを期待していました。私達のクラスの班長の女の子はなぜかクラス全員に排斥されていました。ある日、教壇の前で、彼女は物悲しそうに頭を下げていました。私はいかなる観念も持たないため、心にたちまちこの生命に対する悲しい気持ちが生まれました。私は1枚のメモに「XXさん、頑張れ」と書いて渡しました。彼女がそのメモを見た瞬間、彼女の目に涙が溢れて来たのを私は見ました。

 真相を伝えることは一歩一歩始まりました。最初のとき、私は周りの友だちに伝統文化のことを話して、大法がどのように身を処することを求めているかを話しました。また、現代社会の強い物欲の現状と比べました。私は家に帰ったとき、真相資料を集めて彼らに見せ、いかなる観念も持たず、ただ人の優しさを啓発しようとする気持ちで話しました。時々、話しながら、私の慈悲と神聖な雰囲気に私も学友も優しい気持ちに感動して涙を流したこともしばしばありました。同級生は「だから、あなたはこの名前なのですね。あなたは人を救う人ですね」と言いました。師父の慈悲なるご加護に感謝いたします。自分をしっかり修めて初めて人を済度することができます。真相を伝えることも心を修め、心を浄化する過程です。4年生の実習までに、クラスの4分の3の人は三退をしました。他の専攻のたくさんの友だちも三退しました。学校のある先生は師父の説法の録音を私から借りて聞きました。私から神韻のDVDを受け取ったもう1人の先生は、無料で私に個人レッスンをすると言ってくれました。このような教授の場合、個人レッスンの時給は100元以上するのですよ。私は先生にお礼を言いました。私はこの生命が真相を知ったことを嬉しく思いました。

 学校にいた頃、こんなことがありました。政治科の授業で、先生は法輪功の話に及びました。中国共産党が流したデマと誹謗中傷の内容でした。その時、私は教室の最後列の真ん中の位置に座っていました。私は立ち上がって、大声で「先生、あなたが言ったことは間違いです。法輪功は人にいい人になるようにと教えているのです」と言いました。先生はこの突然の一幕に驚いて、自分の耳を疑ったかのように、「そちらの生徒さん、何と言いましたか? もう一度言ってください」と言いました。私はさらに大声でもう一度復唱しました。その時、教室の中はすごく静かで、前の学生はみんな振り返って私を見ました。先生は話に秩序がなくなり急いで「すべての人は自分の信条があります……」と言って、話題を変えました。私の心はとても落ち着いていて、少しも恐れませんでした。私は自分が言うべきことを言ったと思いました。学期末試験の成績が出ました。私の政治科の点数は99点で、その時の最高の得点でした。私はまた1人の生命が真相を分かったと安らかになりました。

 それから指導員会議の時、法輪功の話題に言及しました。あの先生は1999年以前に法輪功を煉功したそうです。しかしその後、国が禁止し、彼女の夫は市の某区の公安局長だったので、仕方なく、止めてしまいました。話の中で私は無力感を感じました。

 学校にいる数年の間、ちょうどブログとQQが流行りだした時期でした。師父が私に知恵を下さり、いつも家に帰って真相の資料を持って来ることができないため、私はブログを利用して真相を伝え始めました。私はまず一つの番号を申請して、それを元にして真相資料作りをしました。真相内容について、私は注意深く選別し、デザインしました。私はまた簡単なFLASHの仕方もマスターして、写真と文章をバランスよく配置して、普通の人も喜んで読んでくれるように工夫しました。トップページは出来るだけ清潔で、上品で、一目瞭然に仕上げ、あまり敏感な話題に言及しないように、封鎖される確率を減らしました。それから一回で10の新しい番号を申請して、それから一つ一つ番号を使って、本版の真相文章を転載しました。一つの番号を使って、常人のブログに足跡を残して、足跡が上限に達してあとは足跡を残せない時に、すぐに番号を変えます。しかも、その番号はもう永遠に使いません。次回はまた新しい番号を申請しました。統計によると、そのページの訪問数は数百回、時に数千回まで達しました。私は一つの原則を厳守しました。それは、チャットをしない、返事をしないことでした。また、ネットカフェでの時間も長くしないことにして、普通は1時間ぐらいでその場を離れるようにしました。その間、法を攪乱するスパイのブログがありました。最初は同修だと思っていましたが、しかし、その内容をちょっと読んだらおかしいと思い、そこに法を正す口訣を残して、邪悪を一掃しました。私は法をしっかり学んで精進し、正しい道を歩んでいましたので妨害は少なかったのです。

 勉強に関しては、私はただよい学生の基本をしっかりと守り、法を習う以外の時間は勉強するだけにしました。私が三つのことをしっかり行う時、師父は私を激励してくださり、賞状は次から次へともらいました。一等の奨学金、優秀学生……、しっかり行っていない時は、差が出てきます。二等の奨学金、さらに三等の奨学金の場合もありました。私はこれらの成績は全部師父が私に与えてくださった評価だと思いました。4年生の実習が始まるまで、私は合わせて40の賞状をいただきました。私の専攻科目の成績より、選んだ他の専攻科目の成績のほうがもっとよかったのです。私の変化と大学で起きた超常と神秘的な事によって、父の私に対する見方も変わりました。それから、私が母と一緒に法を学んでも、父は反対したことがありません。

 実習したとき、私はより多くより良い職を選ぶ機会があって、ある大学教授が経営する民間企業を勧められました。

 職場で私は不平不満を言わず、真面目に働きました。ある日、地下に埋められた水道管が破裂して、水が溢れ、みんな急いで水を外へ汲みだしました。普通の人はいつも怠けて多くやりたがらず、上司がいなかったらすぐに逃げてしまいました。私は自分が修煉者だと思って、出きるだけたくさんの仕事をしました。私は争わず怨まず、忙しくない時はイヤホンで大法の音楽を聞き、自分の空間を清浄にして、常人社会の汚染を減らしました。同僚たちの疑心暗鬼は私に関係なく、私は誠実に全ての人に対応しました。職場の上司に神韻DVDをあげたら、彼女は厳粛に「法輪大法は素晴らしい」と言いました。また「いいものは誰でもいいと言うから」と言いました。

 実習して1年後、私は卒業しました。上司は一緒に北京で研修するようにと推薦してくれました。私を一つのプロジェクトの担当者に育てたいからです。この時、師父は私にこの街での集団学法を按排してくださいました。これは私が大人になってから初めての集団学法でした。同修に出会ったのも、とても忘れがたい経験でした。当時、会社は引越しの予定がありました。引越しの数日前、私は近くに歌声が聞こえて、とてもびっくりして、耳を澄まして聞いて見たら、なんと姜敏さんの「得度」でした。私は感動して、歌声の源を探して、会社の2階で商売をしている同修夫婦を見つけました。私は同修を見たその瞬間、涙を流しました。とうとう見つかりました。師父がついに私に同修を按排してくださいました。

 それから、私は同修の家で集団学法に参加しました。当時、路上に迷う同修もいて、私達4人で毎日一緒にいました。時に私は同修Aの家に寝泊りもしました。退社して、資料を配りながら家に着き、夜に集団学法し、発正念をしてから就寝し、3時15分に集団煉功をして、さらに法を一講習って、それから出勤するような生活でした。集団学法をすれば向上するのが速く、私はこの貴重な集団学法の環境をとても大事にしました。師父の按排とご加護に感謝いたします。その時、私はもっと同修に掃除の手伝いをして、同修の負担を軽減すべきでした。しかし、私は当たり前のようにもらうばかりして、本当に利己的で、同修に比べたら大変な差がありました。再び同修の無私の奉仕に感謝いたします。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/12/21/283825.html)
 
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