【明慧日本2014年2月27日】私は長い間、個人修煉をおろそかにし、自分の嫉妬心を日に日に増加させていました。自分の修煉は法を正すことに関連するため、これに対して自分でも困惑していました。特に私の目の前で他の同修がほめたたえられた時「彼女より私のほうがよくやっているのにどこを見てるの?」と私は考えていました。それで話す時は、いつも「私」、「私の」など、自己を強調しました。
この間、私は他の人に何か良いことがあった時、不愉快に感じました。なぜでしょうか? 師父の説法に「他人に良いことがあったら、その人のために喜ぶどころか、自分の心のバランスが取れなくなります。」[1]とあります。学法して、これは嫉妬心だと分かりました。すでに他の人の良いことを許せません。私はその心を取り除くと決意しました!
それを取り除くのは大変な過程です。あの日、私は同修が近所の同修の家に坐っているところを見た時、この心が出ました。「あなたはなぜ彼女の家に行くのですか? どうして私の家の前を通っても声を掛けないのですか? 普段、私はあなたにとても親切にしていたのに……」。とても不愉快になって、どうしても抑えられませんでした。私は嫉妬心だと分かり、それを取り除き始めましたが、それはとても強いものでどうしても取り除けませんでした。私は「師父、あなたの弟子はよくない考えがあって、取り除けないのです。手伝っていただけませんか!」と師父に求めましたが、しばらく経ってまたその心は出てきました。私は「駄目です。それと戦わなければいけません。それを取り除かなければいけません」と思いました。私が修煉できないように、邪悪な腐敗物質が必死に私をしっかりとつかんでいると私は知っています。師父は「嫉妬心という問題はかなり重要です。なぜならそれは、われわれが修煉して円満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ、正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得る事はできないのです。」[1]とおっしゃっています。
その日の午後、嫉妬心は続けざまに私の心に出てきました。私は絶えずそれを押さえつけ「これは私ではありません。君の話は聞きたくない」と心の中でそれと戦いましたが余り効果がなく、私は「師父、再度あなたの弟子を手伝っていただけませんか。邪悪はあなたの弟子を壊そうとしていますが、私は師父について家に帰りたいです!」と師父に求めました。かなりの時間が経過し、それは絶え間なく出て来て、私は絶え間なくそれを取り除きましたが、何度も自分では対応できない状態になりました。甚だしきに至っては「このままの自分でもいい」という念も出ましたが、その時私は「自己に非(あらざ)るを切り捨て」[2]という師父の法を思い出し、「それは本当に『切り捨てる』ことです」と感じました!
昨夜、観光地で真相を伝えた時、同修が私の前で他の同修をほめたたえましたが、私も嬉しくて心から納得してほめたたえ始めました。少しも不快になりませんでした。私は不機嫌にならずに、同修に対してうれしかったのです。長い間、このような感じはありませんでした。私は嫉妬心が無くなりました! この瞬間、私は嫉妬心の無い人がどれほど楽で、心境がどれほど穏やかであるか体得しました。
夜に煉功する時、私の心は静かになりました。長い間学法や煉功や正念を発する時に静かにならなかった状況は変わりました。師父の教えがしばしば記憶によみがえます。「心性が高まってくると、身体を構成している物質も間違いなく変化が起こります。どんな変化でしょうか?あなたは、今まで追求し執着していた良くないものを、捨てることになります。」[1]。今、私は涙が絶え間なく流れています。
次元に限界があります。ふさわしくないところがありましたら、慈悲にご叱正をお願いいたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「執着心を取り除く」