内に向けて探して、本当によかった
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文/中国の大法弟子 如月

 【明慧日本2014年3月24日】8月中旬のある日、同修の家で学法をして、一講を読み終え後、私は同修の脚の痛みが1年間続いたことについて交流しました。

 しかし、私は一言、二言程度しか口にしていなかったのですが、同修はいきなり激怒しました。同修は「人にはそれぞれ修煉の道があります、自分の観念を口に出さないで」と喧嘩のような口調で言いました。その時、私は非常に驚きました。まだ何も言ってないのに、すぐ怒るなんて。しかも、私はひどく説教されてしまいました。私は心が動じませんでしたが、それ以上同修と交流したくありませんでした。

 家に帰り、私は「何もかも分からない人だ、彼女の事をもう相手にしたくない、あの悪魔みたいな表情、本当に嫌だ。これから、彼女の家に学法に行かないことにしよう」と腹を立てて、いろいろ考えました。ちょうどその時、発正念の時間になり私は発正念しても、先ほどのことをまだ考えていました。すると、突然、「間隔」という二文字が私の頭の中にインプットされました。びっくりするくらいの衝撃で私は目が覚めました。間違いなく、私と同修の間に疎隔を生じさせ、集団学法の環境を破壊させることは、旧勢力がずっと求めていることではないでしょうか。旧勢力に騙されないように、正念で旧勢力を取り除きます。集団学法は師父が私達に残してくださった修煉形式です。私達はこの環境を大事にしなければなりません。

 この時、師父の法を思い出しました。師父は「修煉の中で、皆さんは良いことに出遭っても、良くないことに出遭っても、すべて良いことです。なぜならば、それらは皆さんが修煉しているからこそ、現れたことだからです。」[1]と説かれました。確かに、今日同修の家であったことは、私に見せているのではないでしょうか。私は修めるべきではないでしょうか。何があったら、内に向けて探します、法に適わないところがあれば、直ちに直します。

 師父は『洪吟三』「誰が是誰が非」の中で、「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心取り去ること多し 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[2]と述べられています。

 自分の執着心を探さないと分からないのです、探してみたら、本当にびっくりしました。自分には同修を責める心が強く、慈悲心はまったくありませんでした。また、色欲の心、焦る心、争う心、顕示心などを見つけました。いつも、法理をもって同修を照らして、内に向けて探したことがありませんでした。こんなにたくさんの執着心をもって、同修と話す時に、同修がよい気分になるわけはないでしょう。

 私に執着心がある限り、それを取り除かなければなしません。私は自分の執着心に直面したとき、体から厚いものが落ちてきているような気がしました、体がすぐ軽く感じ、心も明るくなりました。

 同修は私よりいいところがたくさんあります。例えば、同修は脚があのようになっていても、学法、煉功を怠ったことがないし、積極的に真相を伝え、衆生を救い済度し、毎日三つのことをしっかりやっています。同修はみんなのために、学法の環境を提供して、心の温かい人です。私は同修のことをありがたく思うはずなのに、本当にこんなことした自分が情けなく思いました。ここまで考えたら、同修に「いつも、ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えたくなりました。

 再び同修の家に行った時、同修は非常に落ち着いていました。私達は何事もなかったかのように一緒に学法をしました。内に向けて探して、本当によかったです。師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です。」[3]と説かれました。私に向上するチャンスを按排していただき、慈悲な師父に感謝致します。

 適切でないところがあれば、ご指導をお願いいます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「シカゴ法会」
 [2] 李洪志師父の著作:『洪吟三』「誰が是誰が非」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/9/12/279405.html)
 
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