文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年4月25日】年配の同修は「私は年を取っています」「私は老けています」「私は目が悪くなりました」「私は脚が悪くなりました」などの話をよくします。理解できないかもしれませんが、これは良くありません。「あそこはだめだ」と認識すること自体が皆、邪悪の迫害を承認し、旧勢力の按排に従うことになります。
私が修煉を始めた頃のことを思い出してみると、私たち煉功者の体は天地がひっくり返ったかのような変化が現れたことがあります。しわがなくなったり、髪の毛が黒くなったり、背筋が真っ直ぐ伸びたり、気負いがあったり、歩くときの勢いは風のようでした。どうして現在の高齢の同修は足もとが定まらずに動きが遅いのでしょうか? 老いぼれてよぼよぼで、聴覚障害や目のかすみ、ラクダみたいな背中、えびのように曲がった腰になるのでしょうか? 旧勢力の邪悪な迫害は、私達の理念が歪んだり、意志を緩めているのが、一つの原因ではないでしょうか。つまり、「人は自分の考え方が間違って、心が歪んでいるから、厄介なことを招いたのです」「心が正しくないとはどういうことでしょうか? それはいつも煉功者としての自覚が欠けていることです」[1]
もし私達が心から自分は本当に「老いている」と思うと、これは自ら求めているのではないでしょうか? そうなると、ますます「老いる」ことになります。「老いている」「もうだめです」という観念を、いつも口にするような行動は、旧勢力の按排を認めているのではないでしょうか? 「相は心から生じるのです」[2]、「人間の外見は観念によって変わります」[3]。月日が経つにつれてますます、悪化しました。
実は、これも「師を信じる、法を信じる」にかかわっています。年を取ると、老いていくことは常人としての自然な現象ですが、煉功者には当てはまりません。一部の年配の大法弟子は、本当に若さを保っており、ほとんど老けていません。彼らはいつでも、どこでも、自分は修煉者だという自覚を持っています。一つの言葉、一つの行いはすべて大法の教えに基づいて、自分を律しています。個人の身だしなみに注意し、大法の名誉を心がけています。心正しく物事を行います。歩くときも、力強く元気いっぱいです。他の人は「あなたは健康でいいですね」「年を取っている人には見えません」と羨ましそうに言います。さらに他の人に「法輪功修煉者を見てください、確かに普通の人とは違いますね」というメッセージを伝えています。これも法を実証しているではないのでしょうか? いまだに、だらだら歩いたり、年寄りじみている同修達は、この問題について、深く反省してみませんか?
注:
[1] 李洪志師父の著作:『転法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」
[3] 李洪志師父の経文:『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』