「怒り」の背後には「私心」が隠れていた
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年6月9日】修煉する前、私は自分が心の広い人だと思っていました。それは常人の基準で量ったものです。修煉を始めてから、判断の基準も高くなりました。

 この数年、「怒りやすい心」を重視していません。そのため損失をもたらしました。落ち着いて考えてみると、主な現われはいくつかありました。例えば、誰かが自分によくないことをしたとか、誰かが自分の悪口を言ったとか、あるいは利益の面で自分が損をしたこと等を思い出すと、落ち着かなかったり、怒ったりしました。特に最近の1年、このようなことと多く出会いました。心性の難関を乗り越えられないとき、頭の上で厚いものに押さえつけられているような感じがしました。時には、誰かが自分の気に入らないことを言ったら、その人を相手にしないことにしました。今、自分の言動を振り返って見れば、自分も驚きました。大法弟子は邪党に毒害された衆生を救い済度するために真相を伝えていますが、どうして衆生を無視するのですか? 特に自分にとって「不公平なこと」に遭った時、さらに「不服」になりました。すると、他の人と争ったり、口喧嘩をしたり、ぷりぷりと腹を立てたりしました。その時、恨む心、悪念なども生じました。内に向けて探したら、これは「争う心」「嫉妬心」「名利心」だと分かりました。しかし、これらの執着心だけではないような感じがしましたが、学法のとき、「情」という一念が出てきました。

 師父は「人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです。」[1]と語りました。私の修煉の中で、「情」は幾つの面で現れました。人は自分によくしてもらうことを求めています。「求める」心と「欲張り」の心の作用により、自分は人に心から感謝することができません。何かが自分にとって好きなら喜びますが、嫌いなら、怒ったり手放したり、配慮しないことにしました。法に基づいてみれば、「情」というのは良いものではありません、「情」の基準は利己のため、私心のため、自我を守るためです。

 再び自分がどうして怒るかと考えたら、私の体験では、名利情(精神的)を損なうことによって、怒りという反応を起こしました。こんなとき、修煉者は「忍」をすることができなければ、このような苦しみを捨てることができなければ、トラブルがさらにひどくなります。人と喧嘩する可能性もありうるのです。理性的、平和的に問題を解決することができません。

 法に基づいて、私は人の悪い面と人の「嫉妬心」「争う心」などは繋がっており、「情」の中で生み出されたものだと悟りました。「情」から抜け出して問題を考えてみれば、簡単になります、これらの執着心の由来と変質する過程も分かるようになりました。

 師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。」[2]と説かれました。旧宇宙の「私」の特性は下に行く度に、ますます悪くなり、最後には自分のことが何よりも大事と見ます。私は人から指示を受けたくないという思いは、争う心、嫉妬心、自我を保護する心の塊だと思います。人から指示されたくない心は、法を正すプロジェクトの中で、全体に協力することを妨げています。修煉者が大法に同化するのを妨げています。「争う心」が取り除けなければ、天と地への畏敬の気持ちを抱いておらず、敬いと謙虚の心理状態がないと思います。

 この「怒り」の背後にある「自我」と「私」を認識したならば、直ちに取り除きましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『
法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「境界」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/6/7/293153.html)
 
関連文章