修煉と法を正す時間に厳粛に向き合う
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文/成都市のある学法グループ

 【明慧日本2014年6月10日】法を正す時期の修煉期間は既に15年近くになります。大多数の大法弟子にとって、今までの何回もの生まれ変わりの中での修煉者としての苦しい修煉はさておき、今の人間社会においても、15年という修煉期間はそう短くありません。師尊が巨大な苦痛を耐えて引き換えて下さった法を正す時期の貴重な修煉の機縁を前に、一部の大陸の同修は長い間人心を取り除かず、甚だしきに至っては、一部の同修にはあってはならない状態が現れてきました。修煉は厳粛なことで、大法の要求基準も厳しいものです。ここで私達は、一緒に心を静め、これらの現象の背後に隠されている人心、執着を見つけ出し、真に大法の為、自分のため、そして衆生のために果たすべき責任を果たしましょう。

 一、良くない現象の数々

 一部の中国大陸の大法弟子は、よく法を正す時期の終わりの時間について議論し、時間が伸ばされ過ぎだと言い、早く果位に帰したいようです。

 一部の同修は交流の中でよく、自分は何回も師父の講習会に参加し、数回の迫害を受けても乗り越えてきたなど、以前の自分の経歴を鼻にかけ、円満は時間の問題だと思い、じっと座って法を正す時期の終わりを待つばかりでいます。

 一部の同修は他の同修が迫害を受けてから修煉を止めたのを見て、自分も今まで得たものを失うのではないかと心配し、しかし三つのことを実行しなければ円満できないということを勘案し、真相伝えを適当にしながら法を正す時期の終わりを待っています。

 また、ある同修は数回に渡り師尊の講習会に参加し、1999年以来、何回も邪悪の迫害を乗り越え、既に十分な試練を受けたことにより自分が円満成就できると思い、師尊が法を正す時期を延ばされていることに不満を抱いています。そして、法を学ばず、人に学ぶ一部の学習者は彼を敬服すると同時に、彼の話(師尊は早く法を正す時期を終え、弟子たちをそれぞれの果位に帰させるべき)に賛同しています。

 大陸の大法弟子はグループ学法中、順番に法を読む際、自分に回ってくる法の読む分量が多いか少ないかの事で言い争い、トラブルを引き起こすことがあります。

 自分の間違いが他人に指摘されたら不機嫌になり、素直に受け入れることができず、また、相手の態度が悪いという理由で内に向けて探しません。

 大法の書籍を随所に放置し、足元に置く人もいます。また、御手洗いを済ませた後、手を洗わずに大法の本を手に取る人もいます。

 一人で学法するとき、説法の録音を聴きながら仕事をする人もいれば、他人と会話しながら説法の録音を聴く人もいます。

 長い間グループ煉功の環境がなく、自分の不注意で煉功の動作が変形しても気づいていない人もいます。

 二、修煉は厳粛なことである

 修煉は厳粛なことで、人心で測られる事ではありません。修煉者の修煉に対する態度自体、それがその修煉者の次元の真実な現れでもあります。

 修煉者が修煉後に遭遇するすべての事には偶然がありません。迫害の中で、大法のために払ったいわゆる「貢献」はまさに自分の修煉ではありませんか? まさに自分を成就しているのではありませんか? 私たちの目標は無私無我の正覚を修めることで、大法の責任を担うのは私達の責務です。それなら、自分は大法のために犠牲を払ったという考えを持てば、自分を大法の外に置いたのではありませんか? また、数回に渡り迫害を受けるなら、自分の業を滅する以外、自分が修煉の道を正しく歩んでいないが故に旧勢力に隙に乗じられたという要素もあるのではないでしょうか? 迫害の中で、自分に大法に対する正念があったから、師尊のご加護の下で乗り越えられましたが、その過程において師尊にはどれだけの辛労があったのでしょうか! 多くの迫害を受けること自体、衆生を救うことにおいてマイナスの影響を及ぼしているのに、何を自慢するのですか? 逆に、自分の心性上の漏れを探し出し、自分を更に浄化し、衆生を救う道のりの一歩一歩をより穏便に歩めるよう頑張るべきです。今は個人修煉ではなく、正法修煉の時期であり、私たちは師尊の法を正すこと、衆生を救うことに基点を置くべきです。

 法の基準は上の次元へ行けば行くほど高くなります。法を正す時期の大法弟子がその基準を満たすのも厳しいものです。大法弟子の各々には、法を得た当初、非常に精進する時期がありました。輪廻の苦しみから抜け出す為、人間の一切を放棄できる覚悟で頑張ってきましたが、なぜ今になって出来なくなり、沢山の人心が再び出てくるのですか? じっくり考えてみると、修煉当初の精進の動力になっていたのは「私」で、もっと素晴らしい境地へ達する為、そして自分の円満の為に修煉していたからです。

 このような心を抱き、長年の修煉をしてきて、自分は大法のためにある程度の「貢献」をしたから、そろそろ円満成就できるだろうと思い、精進しなくなる同修がいます。彼らは、師尊が説いた法、衆生がこの世に来た際の期待、衆生が直面している危機、大法弟子の由来、そして先史において大法弟子が師尊との間に結んだ神聖な誓約に関する法の数々を更なる精進の動力とせず、衆生の安否や師尊が求められていることを心に懸けていません。

 実際、今は私心を取り除き、完全に大法に同化する肝心な時期に来ています。師尊が法を正す時期を延ばしすぎていると議論し、そして人心をもって自分は既に十分に円満できると判断したとき、まさか自分のこのような人心によって法を正す時期の時間が延ばされていると思ったことがありますか? 万が一、法を正す時期がここで終わり、私たちにまだ私心があるなら、師父は私たちをどこに置くべきなのですか?

 大法の基準に達し、全ての衆生を心に包容する修煉者は、法を正す時期が終わる前に、必ず師父が巨大な犠牲を払って延ばされた貴重な時間を利用し衆生を救います。私たちは私心をきれいに取り除き、一心に衆生の安否を思う時、多くの衆生がまだ救われていない現実に直面し、必然的に法を得た当初の精進の状態を保てると思います。違うのは、以前は自分の為でしたが、今は衆生のために精進しています。

 三、他人のせいにする習慣を改めない

 上述した現象は大陸ではよく見られます。一部の同修は面と向かって不足を言われても改めようとせず、習慣的に言い訳を探し、他人のせいにします。その原因を追究してみると、個人修煉の角度から見るには、やはり自分の修煉に厳粛に対応できず、自分の修煉状態に素直に直面できないことにあります。

 本来なら、嫌なことを耳にし、トラブルが生じた時に内に向けて探し、自分を修めるべきですが、しかし人心を持って対応したとき、自分の執着のために言い訳を探し、同修の間で正しくない状態を形成させ、本来なら向上できるチャンスを逃し、向上どころか、かえって次元から落ちることになります。

 わが地区のある同修は、グループ学法の際にいつも大法の本を任意に置き、時には不注意に大法の本の上に座ってしまいます。同修に指摘されてから表面上は間違いを認めますが、しかし心の中では依然として自分の意のままにします。修煉は自分の心を修めることで、非常に厳粛なことです。同修に言われる意見も偶然ではありません。

 四、本当に信じるのか、あるいは聞くだけに留まるのか

 師尊は『轉法輪』の中でおっしゃいました。「悟性がどうしても上がって来ない人がおり、わたしのこの本に勝手に線を引いたり印をつけたりします。われわれの中の天目が開いた人なら見えますが、この本は色鮮やかで、金色の光を放ち、どの字もわたしの法身の姿かたちです。わたしがもし嘘を言っているなら皆さんを騙していることになりますが、あなたが一筆でも書いたら真っ黒になってしまいます。それでも勝手に書く勇気が本当にあるとでも言うのですか? われわれはここで何をしているのですか? あなたに修煉を教え、上へ導こうとしているのではないでしょうか? こういうことも考えなければなりません。この本はあなたの修煉を指導することができるものです。これほど貴重なものがほかにありますか? 佛を拝むことは本当の修煉の役に立ちますか? あなたは非常に敬虔で、佛像に触らないように気をつけたり、毎日線香を立てたりしているようですが、本当にあなたの修煉を指導できるこの大法をそんなに汚していいのですか。」

 中国大陸で無神論の影響を深く受けてきた修煉者にとって、上記の段落の法を百パーセント信じることは非常に難しいです。しかし、修煉に伴って、徐々に無神論の汚染を除去し、百パーセントこの法を信じるようになるとき、彼らの師父と法に対する態度も大きく変わるはずです。今日に至り、数多くの大法弟子は師父によって、巨大な神が有する神通力を与えられています。それなら、私たちも神が主佛を敬うような態度で師父や大法を敬うべきではありませんか。私達が手元に持つ『轉法輪』の中に無数の次元の天体や宇宙が含まれていることを確信したとき、師父の説法の録音を聴きながら師尊が洪大な力を持って宇宙の一切を正されていると知ったとき、グループ学法の中で師尊がこの場に来られたような厳粛さを感じた時、法を読む際、師尊が自分の口をもって大法の威力を再現されたとき、煉功の際、自分の全ての次元や空間場における生命の体系が同時に大法の気機に沿って演化を行っていると知ったとき、大法の一粒子として、私たちは敬虔にならなくてはならず、人心をもって自分の損得を測ってはならず、師尊の法を任意に読み間違えてはならず、煉功の動作も正確に行わなくてはなりません。師と法を敬う厳粛な行為は修めることによって得たもので、修煉の状態の表れです。

 中国の伝統書籍『西遊記』の中でこのようなことが描かれていました。本来、唐僧(三蔵法師)は釈迦牟尼の二番目の弟子ですが、説法を聞く際よく居眠りをすることで下界に落とされ、十回の輪廻を経る罰が与えられました。その後、彼は多くの磨難を乗り越え天に戻りました。この一例から分かるように、天上の神々から見れば、師や法に対する態度は極めて重要です。

 大法弟子が修煉の中で正しく歩めるかどうは自分の将来の円満に影響を与えるだけでなく、未来の修煉者が正しい道を歩めるかどうかを左右する一大事です。法を正す時期は最後の最後に来ています。法が修煉者に求める基準も益々高くなってきています。旧勢力はなおも虎視眈々と睨んでいます。私たちがこれ以上旧勢力に隙に乗じられず、穏便に未来へ向かう一歩一歩をしっかりと歩むことは衆生の期待であり、正法の需要であり、師尊の望みでもあります。

 以上は、わが学法グループがわが地区に存在すると思われるいくつかの問題点を分析し、まとめたものです。誰かを叱責するためではなく、ただ内に向けて探す良い環境が形成され、大法弟子が金剛不敗の全体となって、私たちの先史の誓いを一緒に果たせることを希望いたします。

 不適切な部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/5/30/292720.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/6/2/1474.html)
 
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