迫害が継続することに対する再認識
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年6月10日】最近、明慧ネットで報道されている、大法弟子を迫害する判例が持続で発生していることを見て、また自分が何度も邪悪に迫害されたことを回想して、残された教訓は深くないとは言えません。迫害が起こるには以下の数種類の状況があり、私は同修がみな真剣に見ることを望みます。そして、共に教訓を得ます。

 一、自分の修煉に厳粛に対処しない。常人が神になるという、このようなとりわけ優れて偉大な事は、非常に厳粛なことです。根本的に常人の観念を変えて、時々刻々大法と、正念で対処しなければならないのです。自分が直面したすべての事、甚だしきに至ってはちょっと思う一念であっても、明白に自らを修煉します。同時に5式の功法を毎日煉功し、毎日心を静めて学法して、同時に真相を伝えて世人を救うことを自分の務めとして、私心がなく、力を尽くして良く行います。そうでなければ旧勢力に迫害されます。

 二、強烈な執着心を無くさない。名、利、情に執着して、安定した仕事があっても、他の人が稼いだり、車を買ったりすることを見て、心の中は羨ましくてたまりません。同じように何かをやって早く金持ちになりたいと思います。実は妄想です。追求するものが異なれば、それは神と常人の区別です。旧勢力はまたこれを利用して、人にもっと執着させるようにします。

 他にも、修煉時間に対する執着心は初めからずっと存在しています。修煉を始めた時から、一時的にしっかり修煉して早く円満成就するというような考えがあります。このような、一度の苦労で永久に楽になろうという怠けた思想の中に、近道をしたり、手間を省くことを企んだりする悪い観念もあります。このようにやった結果として、常人の中での大法に対するイメージを顧みずに真相を伝えに行きます。これは旧勢力に乗じられる要因です。

 もう一つは、大法弟子とは何かについて分かっていないことです。迫害を軽減したり、終わらせたりすることへの希望を、常人に託してしまうのです。

 三、捕まえられたり、拘禁されたり、殴られたりすることを正常であるとみなしてしまう。甚だしきに至っては、そのために早く、高く修煉できると認識しています。迫害を受けてきた15年間、たくさんの大法弟子が、1回また1回と捕まえられて、殴られ、迫害されたのは、なぜですか? これは正常でしょうか? 法輪功を修煉すれば捕まえられるという考えは、常人から当たり前のことと考えられており、「衆生が大法を得る」ことと、得度を阻害しています。さらに恐ろしいことは、多くの大法弟子が無意識に「これは必然のことだ」という観念を形成しました。

 当初、7.20の時に天安門へ陳情しに行くことを考えると、大法を実証するため、守るために、勇敢に私たちの師父を救うために話をしに行くことは、神様から見ても感動しますが、しかし、少なくない人が自分の円満成就のために行っているのではありませんか? 甚だしきに至っては、捕まえられたり、拘禁されたり、殴られたりさえすれば、早く、高く修めることができるという笑止千万な思想が生じました。修煉は厳粛なことで、大法弟子の頭の中で現われた一念は偶然ではなく、誰がこのような考えを大法弟子の頭の中に出させたのでしょうか? 邪悪な旧勢力しかないのです。旧勢力はあなたがこれを認めていると見て、また迫害を手配します。

 私たちがこれらの人心を放下しないことはすなわち師父の助けを断ることとなります。人間が済度されるには自らの願望があってはじめてできるものです。覚者はそれを強要しないのです。

 修煉の道の中で、大法弟子の教訓はたいへん多く、たいへん痛ましいです。人間社会のそれぞれの動向、及び私たちの頭の中に湧いたもの、または隠れているそれぞれの考え方、観念に拘わらず、私たちは全て大法で判断しなければなりません。正念で対処しなければなりません。正念を保って、慈悲で、理知的に、知慧をもって真相を伝え、衆生を救い、自らの誓約を果たして、自らの先史の大願を完成します。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/5/31/292806.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/6/6/1530.html)
 
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