正念と執着
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 【明慧日本2014年6月24日】ある夜、同修たちは『2010年ニューヨーク法会での説法』を真剣に学んでいました。9時の発正念の時間になり、私は学法の時からずっと座禅していたため、脚が痛くなり、30分も発正念をすると、我慢できなくなりました、しかし、同修たちの静かな発正念の様子を見ると、邪魔したくありません。そこで「忍び難きは忍びうる」[1]を暗唱しました。それでも痛いので、私は我慢しながら「旧勢力のすべての干渉を排除します。私の発正念に干渉してはいけません」と思いました。

 その時、突然声がしました。「私はあなたに干渉したくないですよ。大法弟子が三つのことをしっかりやっていないので、干渉されたり迫害されたりするのです」と言いました。私は「どうしてこうなるのですか? 私たち大法弟子は師に手伝い法を正し、人を救い済度します。あなたたちの干渉と迫害は人を台無しにしました。真・善・忍の法理に符合していません。そうなると、あなたたちは必ず淘汰されます。わかってほしいのですが、大法弟子に干渉しないでください。私たちは円満の時、あなたたちのことを必ず善解してあげます」と話しました。

 その声は「ありがとうございます。必ず大法弟子に伝えてください。多くの人を救い済度することができれば、大法弟子への干渉と迫害もしないのです。実は私たちもやりたくないのですよ。私たちも迫害されています」と言いました。私は「大丈夫です。周りの大法弟子に伝えます」と返事しました。その声はまた「感謝します」と言いました。

 私は涙が止まらなくなりました。なるほど、私は自分のどこに執着があるか探していますが、衆生のことをあまり重視していませんでした。これは私心ではないでしょうか? 自分のことばかりを考えて、師父の要求に従うことができず、人を救い済度することができませんでした。ずっと自分の執着ばかりに執着する、これも執着ではありませんか? 執着の上にさらに執着があります。本当にいけないことです。これでは師が法を正すことを手伝うことができるわけがありません。

 私は決心しました。必ず師父のおっしゃったことに従って、多くの人を救い済度します。大法弟子の時間はたいへん貴重なので、私たちが大切にしない理由があるでしょうか?

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/19/231208.html)
 
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