文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年7月6日】今日、明慧ネットの文章を読んだあと、私は悟りました。ここで書き出し、同修の皆さんと交流したいと思います。
長い間、私は同修の不足ばかりを見ていました。しかも、ある同修に酷い問題があると気付き、私は他の同修たちと交流しました。みんなは「その同修と、直接交流すべきです」と言いました。私はその同修に真面目に問題を指摘しましたが、同修はさまざまな言い訳で自分の問題を覆い隠したばかりか、逆に私に「善」が足りないと責めてきました。
そのあと、私は冷静に内に向けて探しましたが、確かに同修の言う通りでした。自分は「善」が足りませんでした。その時、自分はどうすれば同修と一緒に法に基づいて向上できるかを考えていなかったのです。同修が未だにマルチ商法をやっていることが、法を破壊する行為だと思い込み、止めさせるべきだと思っていました。長い間、自分は「寛容」と「慈悲」、そして、心の度量が足りませんでした。いつも、同修の問題が見つかったら、すぐ相手を責め、自分も腹を立て、ものすごく怒っていました。自分に執着心があると思っていましたが、根本的な問題が見つかりませんでした。
今日読んだ明慧ネット2009年10月26日の「念が正しければ、業が消える」の文章の中に「修煉の中でさまざまな難と関に出会ったときに、角度を変えれば問題を解決できます」と書いてありました。突然、私は牛の角先の問題(とりあげて研究する値打ちのない問題の中で問題を見る)だったと悟りました。いつも、相手の短所と間違いに執着し、なかなか慈悲深く寛容になることができませんでした。自分は相手の問題を気にしすぎて、実は自分もその次元に落ちてしまいました。師父は「病気だと思えば、本当に病気を招いてしまうかも知れません。なぜなら、病気だと思った時、あなたの心性は常人と同じ高さになったからです」[1]と説かれました。
師父は「何かをする時にはいつも他人のことを考え」[1]と話されました。他の人の角度に立って問題を見て、つまり違う角度から問題を見ます。また、神は問題を見るときに「神が立体的、全方位から物事を見ているので」[2]と説かれました。同修はこの方面の修煉はよくでてきていないかもしれませんが、ほかの方面でよく修めているかもしれません。一時的に修煉状態はよくありませんが、これから、しっかり修煉することができるかもしれません。師父は「私は一つの生命に対して歴史から全面的に見ているので、本当に大法弟子であり、以前において本当にとても良い生命だったが、一時的にこの環境で何か間違ったことをしたことは、常人が大法に対して罪を犯したこととやはり違います。損失を挽回したらまだ大丈夫です。良く行なうことができれば、同様に更に大きな威徳が彼を待っています」[3]と説かれました。
個人的な考えですが、同修の良いところを多く見ましょう。同修の良くないところを少なめに見ましょう。大法弟子は慈悲で問題を解決すべきです。法理が分かれば、同修への恨みと焦る気持ちは、一瞬で消えました。そして、心の度量が大きくなったと感じました。多くの同修はこの状態から乗り越えたことがあるかもしれませんが、自分はこの方面の修煉がまだ足りないため、同修の皆さんは慈悲でご指摘ください。師父の啓示に感謝いたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」
[3] 李洪志師父の経文:『各地での説法二』「二〇〇三年カナダバンクーバー法会での説法」