佛は私達のために涙を流す
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年7月8日】毎週土曜日は地元の集団学法の日です。この間、皆と一緒に静功を煉っているときに、しばらく座禅すると、私は深く入静しました。師父は『轉法輪』の中で「ただ自分の思惟があるだけで、わずかな意念だけが自分が今ここで煉功していることを知っています。」と説かれました。すべては空の状態に達していると感じました。このとき、私はある映像を見ました。真中に高大な佛が座り、この大佛の上と下、左と右、そして、その周りに一回り、また一回り、幾重も重なって小さな佛が見え、どこまでも果てしがありませんでした。一人ひとりの小さな佛の頭の上に光っている環があります。私はこの神聖かつ壮観な光景に震撼しました。私の目では見切れないくらいでした。見ているうちに、この画像は突然消え、違う映像が現れました。その時、ただ顔の正面しか現われておらず、彼の左の大きな目からソラマメより大粒の涙が流れてきました。まるで雨上がりの後、木の葉から一滴な透明な水滴が滴り落ちるようでした。私の視線は涙の落ち行く方向を追いかけました。

 この二つの映像を見た後、私は心を長い間静めることができませんでした。煉功を終えた後、私は周りの同修に先ほど座禅するときに見た光景を話しました。同修は、神佛は大災難が起こった時になくなった衆生のために涙が流したと言う人がいれば、その他に色々な原因もあるという人もいました。私の気持ちは相変わらず重いままでした。またその二つの映像のことを考えました。私は思わず「あの涙を流したのは神か佛か、それとも菩薩ですか?」と言いました。そうこうしているうちに、発正念の時間になりました。私は目を閉じると、佛の頭の像が浮かびました。顔立ちが非常にはっきりと見え、髪の毛までもはっきり見えました。私は直ちに佛の涙だと分かりました。彼は私達のような元の次元に戻れない大法弟子のために心を痛めて涙を流していました。元の次元に戻れる大法弟子はすでに師父の周りにいて、各自の世界にいました。

 発正念の後、私は自分の悟ったことを再び同修と交流しました。同修も悲しくなって涙が流れていました。慈悲なる師父は、私達のようにしっかり修めていない弟子のために心配してくださり、心を痛めてくださいました。神が私達に残された時間は少なくなり、師父は一人の弟子をも残したまま立ち去るのがつらいのです。

 現在、同修の間で、確かに次元が大きく違います。特に私達の古い学習者の中では明らかです。ある同修は自分の息子がまだ嫁を見つけていないとか、娘は結婚していないとか、孫はまだ小さいとか、このことあのこと、またある同修は「情」に苦しめられています。さまざまな人心を放下していません。三つのことまで影響されました。数日前、十数年修煉している同修から私に電話が来ました。彼女には彼氏(常人)ができました。私は電話の中で何と言えばいいか分かりませんでした。ただ少し注意を与えました。

 師父は「修難からず 心去り難し 幾多の執着は何時に断つ 皆も知る苦海総て岸無しを 意堅からざれば 関は山に似て 如何にして凡を出づ」[1]と説かれました。同修よ、早く目を覚ましてください。本当の自分を探し出しましょう。劇も終わりに近づきましたので、本当の家に戻る時期がそろそろ来るでしょう。

 その時、映像を見て悟りが出てきました。師父は私に見せてくださり、私が遅れないよう励ましてくださいました。この数日、私は座っていても横になっても落ち着かなかったのです。頭の中であの二つの映像のことをよく考えていました。今日この文章を書き終えて、気楽に感じました。師父はこのことを同修達に教えるため私に早く書き出させました。私達は人心を放下し、しっかり三つのことを行い、師父について円満に戻りましょう。

 注:
 [1] 李洪志先生の詩 『洪吟二』「断つ 元曲」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/12/20/266733.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/3/27/138645.html)
 
関連文章