観光スポットで真相を伝える中で人心を取り除く
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2014年7月15日】昔はまだ観光スポットで真相の放送を流す同修は少なく、その殆どは私が担ってきました。しかしある日、私が観光スポットに着いたとき、既にもう他の同修が放送を流し始めていました。それを見た瞬間、私は自分のやるべきことを他人に奪われたような感じがして、「こんな事なら私はここに来る意味がないじゃないか?」と思いました。その時、私は自分のやりたい事しかしない心を持っていたのです。しかしその後すぐに考え直し、もう既に放送が流されているなら、私はこの余った時間を利用し、他の仕事をする事もできると思い、往来する観光客に直接真相を伝えることにしました。

 私は、自分がやりたい事をする為に観光スポットに来たのではなく、必要とされている事をするために来たのだと思っていました。しかし時々、うまく真相を伝えている同修を見て、その同修または衆生のために喜ぶのではなく、かえって私は嫉妬心を持ってしまいました。内に向けて探してみると、それは自分を実証し、顕示し、同修と争う心だと気づきました。実際、私たち修煉者は一体であり、衆生を救う共通の目標を持っており、全ては師父そして大法がなさる事ですが、自分は何を実証するのでしょう? 衆生を救う事で良い結果が得られたなら、修煉者であればその衆生のために喜び、その同修の苦労に感謝するべきです。

 真相資料を配る時、相手はその資料を大事にせず勝手に捨ててしまうことがあります。内に向けて探してみると、資料を配る際、自分の心が厳粛でないことに私は気づきました。常人がチラシをまくように、私も資料を配りながら常人のことを考えていたのです。もし資料を配る際、私が衆生の全ては天上から来ている王であるという事を考え、この資料は彼らが代表する天体全体が済度されるかどうかに関わっていると思えば、非常に神聖な場が生まれ、資料を受け取る衆生の感覚も違うでしょう。時には三退を勧める時、相手が真面目に聞いていて、そろそろ三退できると思った途端、旅行団体の他の団員がその人を連れて行ってしまいます。内に向けて探し、私は自分に急いで功を成したいという常人の心があることに気づきました。真相を伝えるなら、終始一貫してその衆生を救う慈悲の心を持つべきだと思いました。

 去年の一時、ある邪悪な××会の会員たちは毎日8時間、観光スポットで我々の邪魔をしました。最初の頃、私はイライラして、旗を振っている会員を足で蹴りたいぐらいでした。もちろん、大法弟子である私がそのような行為をしてはいけないことは知っています。2〜3日後、私は常人の空間において何もできないなら、私は発正念して彼らを滅そうと思い、闘争心を持って発正念をしました。その数日後、私はやっと悟りました。表面上のこの人たちが何かをしようとしているのではなく、彼らの背後にいる邪悪が彼らを操っているのです。その後、私は彼らの言動に動揺させられる事なく、専念して発正念できるようになりました。

 皆は自分が現在やっているプロジェクトが重要だと思っていますが、しかし、場合よっては本当に同修全員が一緒に協調しなければならない時があります。例えば、観光スポットという真相を伝える上で重要な場所で、邪悪による妨害が酷い場合、もっと多くの同修が出てきてくれて、関心を持ってくれることが必要です。例え、形式的に観光スポットに来てくれるだけでも、その過程で心性を高め、全体が向上すれば、この場が変わると思います。

 ある日、中国大陸から中学生の観光団体が来ました。私は早速彼らに焼身自殺に関する偽ニュースを暴くビデオを見せました。二分間ほど経ったとき、××会の会員がテレビの前に来て、学生達に見えないように彼らが画面を塞いでしまいました。私はすぐに内に向けて探してみました。すると自分に焦る心を見つけました。早速、私はこの心を放下し、師父の説法を思い出しました。「真相を伝え衆生を救い済度することに旧勢力はあえて反対できません。」(『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」) そう思うや否や、××会の会員はすぐにテレビ画面の前から離れ、学生たちは引き続き真相ビデオを見ました。

 時には自分の修煉状態が思わしくなく、この同修にはこの心があるのが見え、あの同修にはあの心があるのが見え、私は他人の良くない所ばかり見ていました。内に向けて探してみると、実際、私が見ている相手は自分を映し出す鏡です。見えていた他人の良くないところをもって自分を見れば、実際自分にもそのような良くないところがあると気づくことが出来ます。自分を正した後に再び他人を見れば、全ては正常になっています。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/7/1/294108.html)
 
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