正念を固め、魔の刑務所から抜けだした
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年7月18日】私は95年の年末に法を得て、当初は言葉で言えないほどの嬉しさでした。『転法輪』を一回読み終えると、人間がこの世に来た目的は人間になるためではなく、修煉のために、返本帰真のためにやってきたと分かり、法輪大法は修煉でき、円満成就でき、元の場所に戻ることもできる事が分かってきました。

 始めて煉功した日、最初は全身に寒さを感じ、また全身熱くなって、その後すべてが軽くなったと感じました。師父が私の体を浄化してくださっていると分かっていました。それから、長年伴っていた立ちくらみ、めまいの病気が治って、頭皮によくある赤い出来物もなくなって、水一滴すら飲めなかったほどの腸炎も消えました。私は真に病気が無く全身が軽い状態を味わうことができました。第二功法を始めて煉功した時、手を頭の前に持ってくると、頭の前方の上方に4、5個の大きな法輪が色を変えながら回っているが見え、姿を消した後、また10数個の少し小さめの法輪が現れ、同じく色を変えながら回って、また姿を消した後、雪のような無数の小さな法輪が頭上から両側へ漂って落ちてきました。大法は本当にあまり玄妙で、不思議で、非凡だと感じました。

 師父は「人に正法の修煉を教えることこそ、真に衆生を済度することです」[1]と説かれました。たくさんの人に法を得てほしいという願望を持って、私は法を広め始めました。はじめは古い友達と親戚の間で広めました。96年初、県政治と法律委員会の会議室を借りて九日間の説法ビデオを見る講習会を行なって、7、8人が参加しました。5月5日、公園で初めての煉功点を成立しました。私の家で学法のグループを作って、月に一回家で師父の説法ビデオを流しました。その後一つの煉功点から、田舎を含め6つの煉功点まで発展して、学法グループも10箇所まで増えて、97年から、私たちは毎週日曜日に集まって一緒に煉功して法を広めることにしました。99年前半、学法と煉功する人数が毎週、倍ぐらいに増え続け、特に教育界からは、更に多くの人が学法を始めました。

 邪党が法輪功を迫害し始め、7.20の朝、公園へ煉功しに行く時、家の玄関を出ると警官がすでに外で待機していました。昼は町の人が私を見張って、夜は警官4人が見張り、パトカーが常に家の前で止まっていました。昼はまた強制的に勉強会に参加させられ、洗脳を受けました。99年末、私は外地に行き、『明慧週刊』を見ました。同修が書いた文章に非常に感動し、法を実証する方法もたくさん紹介していたので、それから『明慧週刊』は毎週欠かさず見ています。週刊で紹介されていた方法で、両面テープを使って、「法輪大法が素晴らしい、真善忍が素晴らしい」「私の師父の無実を晴らせ」と書いて、道の両側の家の壁に貼って、電柱に真相資料を貼って、真相を伝えはじめました。

 その後、私は3年の不法判決を言い渡され、刑務所に入ってしまいました。刑務所は邪悪な魔の巣であり、中での精神的な圧力はとても大きく、最初刑務所に入った日、正面に3人の修煉者がベッドに手錠でかけられたのを目にしました。その日から、中隊長、大隊長、政治教育課長、政治教育部長はいつも交代で私と話して洗脳を行ないました。私は年寄りと障害者の管区に配置され、環境は比較的に緩かったので、時間があれば法を暗記して、朝から晩まで正念を発し続けました。

 前後三人の受刑者が私を監視していましたが、私は真相を伝え、三人とも受け入れ、私への監視もより緩くなり、夜は座禅をしました。ある日、政治教育部長が私を呼んで、「あなたたちの師父は大学へ行っていない。知識がとても浅い」と言いました。私は「私たちの師父は非常に博識で、古代から現代まで各門の学問、各学科にすべて精通しており、知らないものはありません。人文思想、社会発展方面は更に徹底的に分かっていらっしゃっています。当時清華大学を含め多くの大学の先生と学生、海外の博士、博士修了後の研究者も大法を学ぶ人がたくさんいました。私たちの師父が説いたのは法であり、毎日原稿がなく法を説いて、整理した後本まで出来上がり、修煉者の修煉を指導できます。誰にできますか? 講習会で修煉者の質問に対して即答でき、例えば、ある修煉者の「慈悲の中の「悲」についてどのように認識すべきなのでしょうか?」という質問に対して、師父は「非がないことは人心であり、心があることは悲ではない」[2]と説かれました。答えがこれほど完璧かつ正確で、私たちの師父が説いたことは教科書から学ぶこともできないことばかりで、どこの大学へ行っても学ぶことができないものです」と答えました。

 毎回彼らに呼ばれる時、私はまず正念を固め、彼らに乗じられる機会を与えないように、可能であれば私から話をするようにしていました。「三書」を書くのを絶対やってはいけないことで、決して曖昧にしてはなりません。彼らがいかなる態度であれ、私も焦らず、自然に対処しました。だんだん私にどうしようもなくなり、最後には私を呼ばなくなりました。

 2010年7月、新たな隊長が異動してきてきました。この人はとても邪悪で、修煉者への迫害もとても残酷で、厳重な状態まで迫害された修煉者もいて、不具にまで至りました。彼らは私を3平方メートルの小部屋に閉じて、一日中大法を中傷するビデオを見せていました。私を見あて、どう? と聞いてきました。私は全部ウソではないかと言うと、政治教育課長は嘘と言いながら見ていたでしょうと言いました。これらのものを流した時、私はずっと正念を発していました。しかし、彼らは1カ月あまりも流し続けていたので、部屋も小さいし、窓もドアも全部閉じたまま、天気も熱くて、音も大きいから、一時に耐えられなくなって、断食して迫害を反対しようと思っていましたが、夜に繰り返し考えてみると、このくらいの苦は何でもない、この程度も耐えないのならどう修煉するのか? どんな大きな苦でも私も固く堅持していくと思いました。彼らが放送を流したら、私は正念をずっと発し続けます。考えを正しく直してから、そんなに辛くなくなりました。二日ぐらい経って大きな部屋へ移動され、もう二日ぐらい経ったら放送が止まりました。

 2011年7、8月の間、私が刑務所から出た2、3カ月前、邪悪は再び私に「転向」させようとしました。政治教育課長は「刑務所が転向率が要求するから、私に助けられて、あなたが転化したら、私の成績になる、そうでなければあなたも家に帰れない、学習会にも入らなければならない」と言いました。私は「この手伝いは私にはできない、さもなければ私の人生も無駄になって、あなたの罪も更に大きくなります」と言いました。午後、政治教育課長が一枚の紙を渡してきて、上に「法輪大法を勉強しない、法輪功を煉功しない」と書いて、サインするだけでいいと言って、ひざまずきそうで頼んできました。懐柔の手段を使っていると分かって、自分に対して絶対に妥協してはいけないと言い聞かせました。師父に助けを求め、絶えず正念を発し続けていました。この時私は全身が震えて、涙がぼろぼろ流れ、口元から金色の唾液の泡が流れ、上下の唇が直ちに腫れてきました。政治教育課長がびっくりして、どうしたのと聞いてきました。私はしばらく休んで「いくら説得しても無駄だ、絶対に一文字も書かないから」と言いました。彼は「もういいよ、帰っていいよ」と言いました。それから一カ月あまり二度と私を呼ばなかったのです。

 刑務所を出る前日、政治教育課長は再度私を呼んで、「あなたはサインもしない、転化もしないままで家に帰れない」と言いました。私は明確に彼に絶対にサインしないと伝えました。出る当日の午前、彼はまた私を呼んで、「ご家族は外で待っている。今サインしてもまだ間に合うので、サインすればご家族と一緒に帰れるので、しなければ国安の人が迎えにくるしかない」と言いました。私は「サインなんかするわけがない、必ず正々堂々と出ていくから、絶対に大法に泥を塗らない、自分にも遺憾を残さない」と言いました。師父の保護の下で、当日の午前、正々堂々と刑務所を出ました。私の娘の花婿と娘の花婿の友達の全部10数両の車が迎えに来てくれて、主人、親族、息子の花嫁などたくさんの人が迎えに、場面がとても盛大でした。

 家に帰って、時間を大事にし、法を勉強して煉功して、間もなく同修と連絡を取ることができ、再び真相を伝え、衆生を救い済度することに没頭しました。私は時間の大切さを知っており、必ず時間を大切にし、法を実証し人を救い済度します。師父の慈悲なる済度に感謝いたします!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『転法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『各地での説法』「二〇〇四年米国西部法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/6/20/293700.html)
 
関連文章