法を正すことのプロジェクトで悟ったこと
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2014年7月23日】私は法輪功を学び始めて2年経ちました。きっかけはよく食事に利用していた中華料理店の奥さんに神韻を観るようにすすめられた事です。奥さんは「本当に本当に素晴らしいショーだから観ないともったいない!」「こんなショーはめったに、しかも広島で観る事なんてできない!」「とにかく絶対観た方がいい!」と何回も何回も私に言ってくれました。私はこれまでの人生で他の誰かからこんなに強く、信念をもって薦められた事がありませんでした。しかし、不思議と素直に受け入れる事ができ、チケットを購入しました。そして、実際に観てみると奥さんの話した事は本当のことで、それも自分が想像していたものとは次元の違う、それはそれは素晴らしいショーでした。どの演目を見ても、もうただただ、ものすごいと感嘆するしかなく、私は圧倒されました。公演が終わった後も余韻が残り、私が観たものは一体なんだったのかと、奥さんからもらった神韻の紹介のDVDを何回も見ました。そしていろいろ調べていくうちに法輪功の存在を知り、そして法輪功はどういうものか知りたくなりました。そして以前「お店の二階で煉功をしているから、よかったらいらっしゃい」と奥さんに誘ってもらっていたのを思い出し、煉功に参加しました。そして、何回か参加して『轉法輪』を購入し、学法を始めました。

    煉功を始めて3カ月経ったころ、突然、妻との仲が悪くなりました。私は「多くの人は修煉するにあたって、煉功する度に配偶者の機嫌が悪くなるという経験を持っています」と書いてあったと思い、自然に任せておりましたが、日に日に溝は深まり隔たりを埋める事ができませんでした。私は混乱してしまい、学法や煉功は続けていましたが、結局、離婚という結果となってしまいました。ただ、この事で私は徐々に内に向けて探すようになりました。

    私の内には疑心、恐れる心、闘争心があり、安逸心、また色欲というような執着心がありました。私は発正念の時や執着を感じた時に出来るだけ取り除くようにしました。最近、この事は『轉法輪』第四講の「業力の転化」に書かれているような問題ではなく、執着心が放下できないため離婚に至ったのではないかとようやく悟りました。私は悟性が低く、法を信じる心に乏しく、学法も煉功もしているつもりでしたが、していない状態だったのです。

 この離婚騒動で、私は煉功場に行ったり行かなかったりでした。しばらくすると転勤があり、シフトの休日が変わったので隣町の煉功場まで行かないと煉功できなくなりました。私はここで恐れる心や安逸心が出て、ますます表に出なくなりました。そうして一年ぐらい自宅で煉功、学法していました。ある日、私は突然「真相を伝えなければならない」と思いつきました。そして、その念は日毎にますます強くなりました。具体的にどうしたらよいのか考えていると、今度は学法している時に、しきりに「協調」という言葉が目にとまるようになりました。ようやく私は表に出なければならないという事に気づきました。私は車を借りて隣町の煉功場に行くと、責任者の方は私をずっとその煉功場に来ているかのように応対してくださいました。責任者の方は「あなたの住んでいる町に煉功場ができるといいですね! どこか会場を探してみて下さい」と言いました。私は何軒かの心当たりをあたってみましたが、なかなかいい条件の会場は見つかりませんでした。その報告をすると「信じてきちんと修煉していたら、師父が按配してくれるから」と責任者の方が言ってくれました。次の週にまた行って見ると、責任者の方は「来週から近くの煉功場に行ったらいいですよ」と言いました。地域の同修の方々が煉功場のスケジュールを調整し、増やして下さったのです。私は休日に自転車で煉功場に行けるようになりました。

 その時に責任者の方から「明慧ネットの校正をやってみませんか?」と声をかけられました。自分は未経験だと一瞬恐れる心が出てきましたが、このことも真相を伝える仕事だと考え、やらせてもらうことにしました。二つ返事で校正の仕事を引き受けたものの、実際してみると思いのほか難しく苦戦しました。途方にくれ、翻訳文を何回も読んだり中国語の原文をながめたりしていると、だんだんその文章を書いた修煉者の情景が感じられてきました。すると言葉が頭の中でどんどん組み立てられ文章が生み出されてきました。私は体験したことのない感覚を覚えて、夢中になってその文章をパソコンに打ち込みました。こんな体験はしたことがないので歓喜心が出てきました。歓喜心を取り除いてあとで見直してみても、それ以上の校正を考えつくことができませんでした。しかし、そのことを求めてしまったり、校正に関係のない他の事でも何か執着していると、全く言葉が思いつかず、はかどらず停滞してしまいます。

 ある日、安逸心が出て、法輪功の紹介チラシをポスティングすることが先延ばしになっていました。校正をしていると、中国の大法弟子が危険や苦難をかえりみず真相を伝えている事を伝える文章にたくさん出会います。私は自分のちっぽけな執着心を放下できない事に馬鹿馬鹿しさを感じて、その執着を取り除いてポスティングしました。すると、その日は難しく感じられた文章がすんなり校正できるようになりました。私は校正がうまく行かない時も、また何かどこかに執着心がないか探すことにしました。また、しばらくしてポスティングしたチラシを見て、以前煉功をしていた方が、久しぶりに煉功場に現れました。その方は私の近所に住んでいました。そして私に「私の住んでいる町で煉功場を作りましょう」と言いました。その時、私は以前、隣町の責任者の方が言っていた「ただ信じてきちんと修煉していたら、師父が按配してくれるから」という言葉を思い出しました。

 また校正をする中で「あなたの執着心はこれでしょう? あなたが修めるべき事はこれではないですか?」と、ずばり私の状態を指摘するような文章に出会うこともよくあります。その中で「いかなる心も動じなければすべての変動を制することができます」という法が引用されており、その法を目にした時、私は今までの難を引き起こした原因がひとつ明らかになったと思いました。法を認識し信じる心が、恐れる心や疑う心といった執着心に打ち克てておらず、心が動じてしまい、変動を制することができなかった、全て信じる心が足りない事で起こった事だとようやく悟ったのです。校正の仕事は奥が深く、まだまだ同修の皆さんの足を引っ張っているかと思いますが、私は本当に校正の仕事を通じていろいろと悟らせてもらっています。

 古い同修の方にこの修煉体験の投稿を勧められて、今までの2年間を改めて振り返ると、本当に師父の慈悲なる按配を感じます。慈悲なる師父に感謝いたします。そして、同修の皆様に感謝いたします。これから私は学法をもっとたくさん行い、法の認識を向上させ、発正念を怠ることなくしっかり行って正念を強め、真相を伝えていきたいと思います。

 
 
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