長年修煉してきて、自分ははっきりとした認識を持っておらず、多くの事においてまだはっきりと分かっていません。修煉以来、師尊の説法を学ぶことを通じて、私は多くの法理を知りました。しかし、「真、善、忍」という三文字は簡単に見えるが故に、私は未だその内包を理解できておらず、真善忍を必ず達しなければならない基準とはしていませんでした。
今日初めて分かったのですが、真善忍は私たちが必ずやり遂げなければならないことで、真でなく、善でなく、忍でなければ、円満成就し新宇宙に入ることが出来ません。
事を丸く修めようとして嘘をつくこと、悪意なしに嘘をつくこと、そして、トラブルからまぬがれようとして嘘をつくことはすでに一種の生活の常態になっていて、真でなく、嘘をつくことが頻繁に自分の身に起きています。
(一)法を実証する中で真を貫くこと
法を実証する中で、文章を書いたり、芸術作品を投稿する際、必ず真でなければならず、これは一つの修煉の過程です。
例えば、文章を書く際、党文化や、嘘がよく私の身に現れ、絶えず自分を正さなければなりません。歪曲や誇張は全てが「真」でないことです。毎回文章を書く際、私はいつも事実でないところや、誇張、歪曲の部分があるかを確認します。これは、自分にある変異したものを取り除く過程でもあります。
また、工芸品の作品を投稿するとき、私は部品の一つ一つを手作りで仕上げ、既製品を買わず、使わないようにしています。既製品は創作とは言えず、どうして投稿できるでしょうか? もし既製品の部品を使った場合、どの部分が既製品であるかを明記すべきだと思います。私はいい加減でも構わないという変異した思想を取り除き、真に努め、工芸品を投稿する際は、部品の一つ一つが自分の手作りであるよう努めています。
(二)生活の中で、真でない部分が暴露される
自分は真になったと思っても、修めていけば、やはり自分は真でないことに気づきます。
例えば、消耗材を買う前、私は価格を比較するために何店舗かを回ります。その時、習慣的に「後で買いに来ます」と嘘をつきます。実際、私はもっと安い店に買いに行きます。守れない承諾を口にすることが習慣化されています。
時には、私は買う気がなくても、「後で買いに来ます」と言っていいて、売り手に商品を紹介してもらい、自分の商品に対する好奇心を満たし、または心にある寂しさを紛らわします。
また、営業許可外のタクシーを利用して農村に行く時、それが自分の行ったことのない村の場合、もし運転手は私を別のところに連れて行っても私は分からないので、そのような事態を未然に防ぐ(人身の安全の)ため、私は運転手に親戚が迎えに来てくれると伝えます。生活の中で、このような嘘は日常茶飯事のように充満しています。
そこには、あれこれといった理由があって、悪意はありませんが、しかし気を使って見ないと問題とは気づきにくいのです。各方面において、嘘の影が潜んでいます。嘘つきが習慣化されれば、それを何とも思わないようになってしまいます。
(三)党文化の毒害を排除する
いつから自分は嘘をつくようになったと自問すると、私は小学校の時から、学校で嘘をつくよう育成され始めたことに気づきました。
例えば、小学校の時、記述文を書く練習をする際、「…という出来事について」の題目が与えられ、誰もが書いた経験がないので、先生は私たちに自分の想像に頼り、作り出すよう教えました。
また、小学校のときから、先生は私たちに作りごとを言うよう教えています。上層部の誰かが授業参観に来るとき、先生はすでに教えた授業内容と同じ内容でもう一回授業を行い、私たちにまるで初めて聞くような振りをさせ、学んだことのないように質問もさせられました。
このような党文化の毒害を受けながら成長してきた私たちは、習慣的に嘘をつき、嘘偽りや戯言を軽々しく口にし、それがすでに細胞の一つ一つに深く浸透しています。この毒害をはっきりと認識しなければ、自身に残っている党文化の毒素も認識しにくいでしょう。
(四)「真」でない背後には自己を保護する私心がある
毎回、嘘をつく事の背後には、トラブルから避けようとする、自分または家族を保護しようとする、あるいはある種の利己的な心がありました。自分が傷つかないように、巧妙にそれを覆い隠しました。狡猾な生命はどうして佛になれるのでしょうか? 生命はなぜ「真」でなければならないかを分かったような気がしました。
嘘偽りや、真でないことの間違いを認識できるようになってから、私は自分を変えようと決心しました。師尊は次のようにおっしゃいました。「わたしは言いたくない話は無理に言わない人間ですが、わたしが口にすることは常に本当の話でなければなりません。」[1]
私も、言いたくない話は無理に言わず、口にすれば必ず本当の話であるよう努めたいです。
そして、私は真、善、忍を着実に実行したいです。自分を法に照らし合わせ、怨みを持つのは善でない現れであり、怒り、かんしゃくを起こし、安逸を求めるのは忍でない現れです。これらは未だ完全に取り除いていない私の執着です。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』