文/アメリカの大法弟子
【明慧日本2014年8月17日】(次の文へ)
私は修煉を始めてから17年になります。法を正す時期の大法弟子になれたことを幸いに思っております。師父の慈悲なる保護がなければ、私の人生は全く違っていたでしょう。常人の仕事は哲学の副教授で、共産党学校で幹部たちに共産党の邪悪な理論を教える仕事です。以下、私は自分の修煉体験を同修の皆さんと交流したいと思います。
一、中国での修煉経歴
大学で学んだもの、仕事で使うものは全部、無神論の邪悪な学説です。闘争哲学と無神論は教える中で中核となる理論です。中国共産党の哲学は科学ではなく、変異された政治のために働く道具です。いわゆる唯物主義とは、はっきり言えば「唯我主義」(自分だけ重視する)、「唯権主義」(権利だけ重視する)です。気功のブームがピークになっていた時、私は何も信じず、触れようともしませんでした。しかし息子の同修が、私に法輪功を紹介してくれた時、私は何の抵抗感もなく、喜んで受け入れました。おそらく大法と縁があるからでしょう。
1999年7.20日以降、私は法を実証するために2回北京へ行きました。当時、大法弟子として大法を守るべきで、実証すべきだとはっきり分かっていました。一回目は7月20日に北京へ行き、天津市で天津の公安局に逮捕されました。取り調べ中、私は迷いもなく「続けて修煉します」と言いました。その後、家族が私を迎えに来てくれました。
その後、私と息子が大連の家でテレビを見ていると、大連市の派出所の警官がやってきて、私達を逮捕し、不当に15日拘禁させました。理由は社会の秩序を乱す行為があったからだと言われました。家でテレビを見ていることが、社会の秩序を乱すことなのかと聞いたら、警察は「今、法輪功をやっているとそうなる」と話しました。
学校の幹部と学校の所在地区の警官たちが、私を大連から地方へ連れて行きました。職場の幹部たちは私のことで自分たちが巻き込まれることを心配して、地元の公安局に再び私のことを拘禁するように要求しました。私一人のことで、地元の市の役員たちは緊急会議を開き、拘禁するか討論しました。当時、私の心理状態は穏やかで、私のことを知っている人たちはみんな私のために役員たちに言ってくれました。その中には私が以前教えてあげた、市公安局の副局長もいました。彼は私の人柄が分かり、私のために、逮捕するには法的根拠がないと役員たちに言ってくれました。その後、私は大連の家に帰ることができました。師父は再び私のことを守ってくださいました。
私が法輪功を修煉しないとの保証書に署名しなかったため、学校の書記は翌日から授業させず、私の給料を2年くらい差し押さえました。この2年間、私は絶えず、学校側に真相の手紙を送りました。『九評』が発表されてから、私はすぐ学校の幹部らに送りました。私は手紙の中で「国のどの法律にも給料を無断に差し押さえ、生活を断ち切る項目はありません」と書きました。法輪功の真相を多く伝えてから、学校側は何の理由も言わず、私の身分証と給料カードを返してくれました。給料カードには2年間の給料も入っていました。最初、学校側と地元の公安局の人たちが、私を連れてくるとき使ったお金を給料から無断減俸しましたが、その分のお金も返してくれました。
2008年オリンピックの前、私は深セン市で逮捕されました。広東省女子刑務所で、私は不当に3年6カ月拘禁されました。様々な拷問を受け、毎日の洗脳で、一時期大法から離れたこともあります。今その期間の修煉経歴を振り返ってみると、自分の人心でもたらされた悲惨な結果だと反省しています。その大きな教訓により、法に基づいて向上してからこそ、損失を補うことができると分かりました。
旧勢力は、私のことを本当に台無しにしようとしました。刑務所で私はひどい病業の現象が現れました。もう身体は耐えられなくなり、警官らは私を病院へ運びました。私は師父に助けを求めました。当日の午後、奇跡的に何ごともなかったように、病状は完全に消えました。師父が私のことを救ってくださったのだと分かり、師父のことを思い出すと自ずと涙が出てきました。大きな難の前で、師父の慈悲なる保護がなければ乗り越えることができませんでした。
息子の同修は私より2年早く、大学に入ってから修煉し始めました。その後、大法を私に教えてくれました。1999年7.20日以降、息子は6回も拘禁されました。遼寧省は当時、薄煕来がトップであった最悪の数年でした。2004年、息子は4つ目の労働教養所に移送されてから、迫害され死に至りました。夫はその衝撃に耐えられず、その苦痛、怨みを全部私に転嫁しました。断固として私と別れたいと言い、私がどのように挽回しようとしても効かず、結局離婚しました。それ以降、家庭は破綻してしまいました。
息子が去ってから、私も非常に苦しく、この情を放下すべきことを分かってはいましたが、口では放下したと言っているものの、実際は放下できませんでした。一時期は内心の苦痛を和らげようと、息子に関するすべてを思い出しませんでした。息子は出所してから、私のことを心配して、労働教養所の中での具体的な話をしませんでした。後で息子と知り合っていた同修が海外に抜け出してから、息子が労働教養所で迫害された状況を明慧ネットに発表しました。私はその文章を見て、本当に耐えられませんでした。理性的には息子の迫害状況を暴露し、邪悪を控訴すべきだと思いながらも、ペンを持って書こうとすると、どうしても書けませんでした。師父の法像の前で、号泣した後は声も出ませんでした。しかし、師父に対して「師父ご安心ください。私は必ず放下します。私は必ず私がやるべきことをやります」と言いました。
長い間、苦痛に耐えてきて、私は修煉者の姿で、息子と私を迫害した警官、および江沢民を国際機関に控訴しました。また、邪悪を暴露する多くの文章を明慧ネットに発表しました。中国共産党が私の家を迫害した事実を暴露しました。この過程は私が法に基づいて向上し、真相を伝え、邪悪を解体する過程でもあり、自分が情の中から抜け出る過程でもありました。しかし、徹底的ではありませんでした。
私は海外に来てからも、家庭と息子のことを思い出すと悲しくてたまりませんでした。しかし、法に基づいて向上してから、情を放下することができ、これこそ真の修煉で、真の昇華だと思いました。息子は修煉者で、法のために生命を貢献し、それは衆生を救うためではありませんか。私は息子と一緒に法を実証しようと思いました。
私は中国共産党に毒害され、騙されている衆生を救おうと思い、息子の写真を掲げて、中国大使館に行って、中国共産党が私と私の家族を迫害したことを暴露しました。私達は最も有力な証で、この全ては事実です。全世界の人々に、特に貴重な中国人に真相を知らせ、この邪悪から離れてもらいたいのです。私はマスコミの記者、アメリカの議員に対して私の経歴を話しました。これらのことを行ってから、私は正面から情の関に立ち向かうことができ、乗り越えることができたと思いました。情の中から抜け出て、気が楽になりました。
このすべてのことを行う中で多くの良くない物質を捨て去りました。情も物質であり、私的なものです。頭の中でずっと自分の家族、自分の苦しみについて考えていました。これらの物を捨て去らないと、法を実証する余力がないはずで、全力で三つのことができるはずがありません。多くの同修が私と同じ経歴を持ち、もっと多くの同修は生きたまま臓器を摘出され、想像もできない苦痛の中で命を奪われました。私は自分のことばかりを考えるわけには行きません。私は徹底的に情から抜け出て、自分がやるべきことを行わなければなりません。自分がやるべきことを行い、全力で中国共産党に毒害されている人々を救わなければなりません。
(続く)