海外に来て いっそう精進する(一)
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文/カナダ・モントリオールの青年大法弟子

 【明慧日本2014年9月3日】(次の文へ

 1996年、私は9歳の時に修煉を始め、本日まで、すでに18年間修煉しました。2カ月前、私は師父の按排の下で、カナダにやって来ました。この2カ月間、私はたくさんの活動及び集団学法に参加し、大陸の同修が15年間も失っていた集団学法、集団煉功の環境にどっぷり浸りました。私は奮い立ち、また、自分の長年の修煉を改めてじっくり考えました。今日、私はいくつかの側面から自分が自覚したものを述べたいと思います。不適切なところがあれば、慈悲なるご叱正をお願いします。

 怠惰な心を取り除き、新たな着実に修める道を歩む

 私は修煉を始めた当時、まだ幼かったため、あまり煉功をしませんでした。その後、成長して行く段階でも、煉功の重要性を理解せず、ただ業力を消去する時だけ煉功する程度でした。私は、煉功は三つのことではないため重要ではないと考えていました。中国国内では、集団煉功、集団学法の環境がなくなり、促してくれる人もなく、その上、自分を放任して、多くの時間を映画や娯楽番組、ニュースに費やして、本来煉功して、本体を変化させるべき時間を無駄にしてしまいました。それだけでなく、それらのものを見る事によって、多くの執着心や観念、思想業を増やしてしまいました。モントリオールに来てから、ここでは、師父の説法動画学習コースが2回開催され、毎回、説法を聞き終った後、お互いに動作を正したり、交流したりする時間も設けられていました。交流を通じて、私は煉功の重要性をより理解しました。師父は、動作は「圓満成就するための一種の補助的手段です」(『シドニーでの説法』)とおっしゃっており、また、「それでこの大法は修め煉ることを必要とし、修が先で、煉は後である。心性を修めず、ただ動作を煉るだけでは功は伸びないのである。ただ心を修めるだけで大圓満法を煉らなければ、功力は阻まれて、本体も変化できない」(『大圓満法』「1、功法の特徴」)ともおっしゃいました。

 私はこれほど長年修煉して、このお言葉を初めて読んだような気がして、今まで、観念に妨げられ、師父が説かれた最も基本的な法を心に留めませんでした。私は決心して、毎日5式の功法を励みました。夜、座禅を組む時、40分を超えると足が痛くなり、体を揺らし、冷や汗をかき、心も乱れ、「足を下ろしたい」の声ばかり聞こえてきます。私は、「古い学習者として、これほどの痛みは大したことではない。中国国内の大法弟子が受けた迫害と比べたら、この程度の痛みはちっぽけなものだ。痛いほどよい事で、業力を滅しているからだ。足を下ろせば、業力をどうやって消滅できるだろうか。私の悟性はこの程度のものか」と思いました。私は歯を食いしばって堅持しました。数日前、同修である父に私の何枚かの写真を送りました。父は「あなたの顔色は国内にいる時より随分よくなった。以前、顔にいつも雲がかかったようだが、今、その雲がなくなった」と言ってくれました。私は、これは煉功の成果で、本体を変化させた結果だとわかっています。

 党文化をなくし、慈悲を修める

 カナダに来てから、いくつかの事から、自分に党文化がまだまだ多い事に気が付きました。私は人に言われるのを嫌い、言われると心のバランスが崩れ、あるいは逃避しようとする気持が込み上げて来ます。これに気付いてから、私は『党文化を解体する』の音声を聞き始めました。

 聞き終わって、私は「党文化を取り除いて、偽・悪・闘を除去しなければ、大法を理解することも、次元を高めることも、真善忍に同化することも、すべて妨げられる」と理解しました。2回目の学習コースで、私は動作を訂正する立場になりました。「法輪周天法」を学ぶ時、私に訂正された数人の同修は口を揃えて、私の動作は正確ではない、間違っていると言いました。その時、もう1人の同修は、「あなたの蓮花手印は正確ではない、あなたの動作が正しくなければ、どうして人に教えられるでしょうか」と言いました。以前でしたら、このように言われると、私はきっと心が動じていたでしょう。しかし、党文化を取り除いた後、私はこの指摘を耳にした時、何もマイナスな気持ちがなく、かえって、とても喜んで、自分の間違ったところが直され、また指摘されることは、本当によかったと思いました。党文化を除去すると、今までなかなか取り除けなかった執着心も党文化と一緒に解体してしまいました。

 色心を暴いて、邪欲を取り除く

 数年前に、私はとてもはっきりした二つの夢を見ました。一つは、とても暗い世界に、多くの人が馬車に乗って地方へ移住していました。そのうちの一台の馬車に美しい若い女性が座っていました。彼女を見た私は色心を持って、彼女に近づき、話しかけ、そして彼女と賑やかに談笑し始めました。話が盛り上がった時、私達の真上の空に炎が出来、火が次第に強くなり、さらにある程度強くなると、その炎の塊は私の世界の衆生に打ち降ろされました。彼らが苦しみの中で死んで行くのを見て、私はそばで泣きながら、これを阻止したいと叫びましたが、できませんでした。その恐怖と苦痛はとても言葉で表現できるものではありません。

 二つ目の夢は、ある神聖かつ清潔で、この上なく美しい世界に、青々とした山と川があり、人々はそこで耕作し、生活していました。その時に、突然、2匹の蛇のような大きな醜い生物が突進して来て、行く先々で火を付けました。私は功能を使って1匹を殺しましたが、もう1匹を殺そうとした時、私の心に少し憐れむ気持ちが芽生えてしまいました。その一瞬、その蛇は土に潜り込んで逃げてしまいました。

 実は、この二つの夢は、師父が重い金槌で私を叩かれたものでした。私は色心及び思想業によって理智を失い、男女関係まで発展しませんでしたが、しかし長年、色心を取り除くどころか、かえって助長して、甚だしきに至っては、この心によって、多くの衆生が消滅されても、まだ悟らず、まだそれを惜しんでいて、それは自分の欲求を満足させることができ、自分のストレスを解消してくれると思っていました。これだけ長く修煉して、今になってやっとこの執着を取り除こうとする自分を恥ずかしく思いました。これは私の根本的な執着心で、師父について家に帰るかどうかを試す根本的な試練の一つでもあります。今日私はそれを暴露して、この比類のない汚い心を取り除きたいと思いました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/23/296337.html)
 
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