文/ドイツの大法弟子
【明慧日本2014年9月28日】新年の法会の際、同修の発表した一言が私に深い印象を残しました。その同修はこう言いました。「ある日、神韻チケットの販売所のある同修が、私にこんなことを言いました。他の同修が来たら必ずチケットがよく売れます。表面上、それはいいことだと私は言いましたが、内心では、その同修が多くの衆生を救ったことに喜びを感じることができず、多くの衆生が救われたことにも喜びを感じませんでした」
私は他の同修がよくチケットを売ったときに本心から喜びを感じたでしょうか? 若干の喜びは感じるものの、自分がよく売ったときに比べ、それほどではありませんでした。よく考えてみると、誰がチケットを売っても衆生を救ったことに違いはなく、なぜ自分が売ったら喜びを感じるのでしょうか?
ある日、同修が数日ぶりに1枚のチケットを売って、「やっと売れました」と喜びの声を上げました。私も一緒に喜んだのですが、しかし、その直後に一念が生じました。「私もいついつ、チケットを売ったことがありますよ」。振り返ってみると、その一念は『轉法輪』の中の百点を取ったという例と全く同じではありませんか? 他人が百点を取ったのを見て一緒に喜ぶのではなく、「私も百点を取ったことがあるよ」と考えるのは、まさに嫉妬心です。嫉妬心のため、私は心の底から他人のために喜びを感じることができませんでした。
今まで、私は自分の嫉妬心はそれほど大きくないと思い、あまり気にしませんでした。今、これは非常に良くない心だと認識し、少しでもあれば衆生を救う妨げになることに気づきました。それに、師父は『轉法輪』の中で次のように説かれました。「人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることができないのです」。私は必ずこの心を取り除かなければなりません。
数日前、住民に資料を配る際、私は自分に焦る心があることに気づきました。私はもう一人の同修と一緒に、わが家の2人の小弟子(私の子供)を連れて資料を配りに出たとき、比較的遅かったのです。しばらく資料を配ると、もう暗くなり始めました。私は子供がモタモタするのを見て、口では何も言わなかったものの、焦り出しました。
手元の資料を全部配ってから私たちは一緒に資料を取りに車に戻りました。車の鍵を手に持つと邪魔なので、ポケットに入れても不便だと思い、資料の横に置きました。資料を手に取ってから私はそのまま車のドアを閉めました。ドアを閉めた途端、私は車のキーを中に置き忘れたのを思い出し、ドアを開けようとしてもできませんでした。仕方なく、私は主人に電話し、予備のキーを持って来てもらうことにしました。彼が電車で来るのに1時間ぐらいかかりました。
冷静になって内に向けて探し、私は先ほどの自分の焦る心が非常に強かったことに気づきました。どうせ早く帰れなくなった以上、ゆっくり資料を配ろうと思いました。その直後、試練が来ました。私は娘と一緒にある別荘地区を回りましたが、4軒の家の郵便ポストはどうしても探すことができませんでした。焦ってはいけないと思い、私はゆっくりその家の形を観察し、家の横にある小さな路地で郵便ポストを見つけました。通常、このレベルの家ならこんなデザインにするはずがなく、最初はこの小さな路地は地下室へ行く道だと思ってしまいました。
この数軒の家と向かい合っている二軒の家も特殊な形をしていて、見た目では一軒家ですが、一つの門の中に二つの家があります。資料を配り終えて行こうとするとき、私は一軒家なのに、二つの門があることを不思議に思い、じっくり観察し、暗闇の中でもう一つの黒い郵便ポストを見つけました。もし、私が先ほどのように焦れば、数軒の家を見過ごしていたでしょう。
娘は焦らず、物事をじっくり観察しています。実際、最初から彼女に、そこには二つの門があるから、よく見てと言われました。しかし、私は素直に聞きませんでした。彼女はまるで師父が按排して下さった、焦る心をなくす模範のようでした。
翌日の出来事で、私は更に先日の理解を深めました。その日、息子の弾くピアノの音が非常に美しかったのです。普段、彼はいつも焦る気持ちでピアノを弾き、当然、音楽にも緊張と不安があります。私はそれが彼の性格だと決めつけていました。しかし、その日、彼が弾く音楽は穏やかで、少しも焦燥感がありませんでした。私はやっと分かりました。彼の以前の焦燥感は、私の心の鏡だったのです。私は鏡を見ることを拒み、内に向けて探さず、彼の問題だと思っていました。今、私は焦る心を取り除き、彼にもそのような現象がなくなりました。
師父は『米国西部法会での説法』の中で次のように説かれました。「つまり、二人の間にトラブルがあった時、自分に何かの問題があるのではないかとそれぞれの原因を探しています。皆自分にどういう問題があるかを探すべきです。もし第三者が彼ら二人のトラブルを見たら、その第三者も偶然にそれを見たのではないと私は思います。どうして私に彼らのトラブルを見せたのでしょうか、私にまだ足りないところがあるのではないか、と第三者であるあなたまで、考えるべきです。このようにすべきです」。どんなトラブルに遭遇しても内に向けて探せば、必ず自分の問題を見つけることができます。これは確かなことです!
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/9/11/3209.html)