学歴の低い同修から「簡単」な考え方を学ぶ
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文/石家荘市の大法弟子

 【明慧日本2014年10月28日】修煉の中では、多くの困難に出逢いますが、多くの機縁にもめぐり会います。以下は私の「学歴の低い同修から『簡単』な考え方を学ぶ」ことについての修煉体験です。

 同修の「簡単」な考え方

 私達の学法拠点には、小学校卒の同修がいます。彼は修煉の中で、いつも大法の法理で自分を厳しく律して、非常に精進し、修煉状態も素晴らしいです。学法の時、彼は3時間以上も両足を組むことが出来、発正念の時も雑念がなく、よく卵の殻に座っているような状態に入るそうです。彼はいつも「師父の言われる通りに行う」と言っており、交流の中でも、いつも師父が説法の中でおっしゃった言葉を使い、多くの同修は彼の話をとても聞きたがっています。

 彼は考え方が簡単で、観念が少なく、言葉は法の基準に到達していますが、しかし、同修が直面している問題に対しては、具体的な説明やアドバイスが足りません。学法拠点の同修は皆彼の話を聞きたがっていますが、しかし、現実問題となると、法理に基づいてどう対処すればいいのか結局分からず、実用性に繋がらないとも言います。

 例えば、ある同修は問題があって、彼に聞くと、彼は「分からなければ、分からなくて構いません。分からないと言うのは、あなたが分かるべきではないということです。分かるべき時が来たら、自然に分かるからです」と言います。これは確かにある次元の理ではありますが、しかし、多くの問題に対して、やはり同修にはっきり説明してあげた方が良いと私は思いました。なぜなら、その法理を理解できなければ、その次元の法に同化することができないからです。分からない所について、自ら進んで解いて、文字の裏の内包を悟るべきだと私は思いました。

 自ら「位置を定める」と機縁

 私はいわゆる「知識人」の類に入り、考えるのが好きで、なんでも必ずはっきりさせたいと言う思考法を持っています。十数年の修煉を通して、私は法の表面上の意味のほとんどをはっきりと説明ができ、同時に、様々な実証科学で解明できない謎も解けました。従って、私はずっと自分の学習法が正しくて、彼の考え方は少し極端であると思っていました。「同修の間の交流と議論は当然なことで、ひたすら否定してはならず、同修に質問をさせないのは正しくありません。頭にある障害を排除しなければ、法に対する理解に影響を与えかねません。師父でさえ説法の中で『よく考えてください』とおっしゃっているからです」と私は思いました。

 しばらく前のことですが、私には妨害がありました。私は目を閉じるとある動態の光景が顕れ、それは現実の生活環境とほとんど変わらず、時には同じ仲間のことが出て来るものでした。そして、座禅と発正念の時も顕れました。私は法からこの現象の根源を探し、この妨害を解決しようとしました。この動態の光景は自分の天目で見たものだと私は考えました。しかし、「どうして現実世界と大した変りがなく、もっと高次元の光景ではないでしょうか?それは自分の天目の次元が低いゆえに、この低い空間の光景しか見えないのでしょうか?そうではないはずです。自分は精進している同修達には及ばなくても、しかし、自分を緩めたことはないはずです。もしかしたら、これは私に何かを気付かせているのではないか」と思いました。

 同修と交流する

 私は納得できず、同修と交流しました。同修は「あなたはそれが何かを考えなくていいです」と言いました。私は「どんなことでも、師父からの啓示の可能性がありますから、この法理を悟る機会を逃してはいけません。しかも、どう言うことかも分からなければ、どうやってそれを排除するのでしょうか?」と言いました。彼は「すでにあなたを妨害しましたか?」と聞き、私は「その通りです」と答えたら、彼は「妨害していれば、なぜそれを一掃しないのですか、考える必要があるのでしょうか?このまま妨害させてはいけないのです」と言いました。私も同修の話しはそれなりの道理があると思いました。しかし、それは私が期待している答えではなかったので、完全に受け入れる事が出来ませんでした。

 二種類の大法弟子を邪悪は迫害することが出来ません。一つは法理が明晰で、旧勢力が隙に乗じる事が出来ず、迫害するチャンスがない、そういう人達です。もうひとつは、考え方が非常に単純で、交流の時には特に法理を話すことも無く、ただただ100%師と法を信じ、師父のおっしゃる通りに信じ、観念の障害も無く、師父のおっしゃる通りに行動し、どうして? どうして? と聞かない人達です。

 家に帰った後の思考

 家に帰ってから、私はじっくり同修の言葉を考えました。同修が言ったことは正しくないのでしょうか?正しいです。しかし、私はなぜ受け入れなかったのでしょうか?自分は自分が法理について明晰で、同修のような頭が単純な部類ではなく、彼らとの思考法が違うと思っていました。たとえ彼の話は道理に適っていても、私には適していないと思い込んでいました。しかし、知識人だからと言って、違う思考法は駄目なのでしょうか、なぜもっと簡単にできないのでしょうか?同修も私に「あなたは自分を知識人と定めないでください」と言っていました。

 私の思考法と同修の思考法の違いは一体どこにあるのでしょうか? 「今までの考え方を変えてもいいじゃありませんか? 知識人の考え方はいつも自分が身に付けた「真理」ですべてのことを評価し、『推理出来るか、科学的な道理があるか』などを思い、それは数十年来、実証科学及び党文化によって出来た障害ではないでしょうか?それは決して唯一の道ではないはずです。それなら、どうしてそれを排除しないのでしょうか」と思いました。

 法を得た当初、私は師父のいくつかの説法を100パーセント信じる事ができず、自分の知識を持って、理性的に考え、繰り返し自分の頭の中の障害を排除していました。すでに18年も経ってしまいました。今でも「懐疑⇒解釈⇒排除」のような複雑な認識法が必要なのでしょうか。まったくその必要はありません。しかも全くそうすべきではありません。知識人の考えも簡単になれるはずです。師父がおっしゃったことをそのまま信じ、おっしゃった通りに行えばいいです。こう思えば、心の中ははっと明るくなり、同修の気持ちも理解できるようになりました。

 自分が納得して、他人を助ける

 同修は正念が強く、思考が簡単で、直接法の基準と要求を明確に言えます。私は考えるのが好きで、具体的な問題にアドバイスや解決法を持っています。それから同修との交流の中で、私達はお互いに補い、他の同修の法に対する理解に手伝いをしました。

 ある同修は発正念の時、手を倒してしまいます。同修は「発正念の重要性に対して認識が足らないと、このような現象が起きます。発正念は邪悪を滅していることです。これだけ厳粛の事はなぜ重視しないのでしょうか? 私は発正念の時、心に雑念がなく、体はエネルギーに包まれ、天目は見えませんが、しかし、私は功が有効に邪悪を一掃していると感じています」と言いました。

 手を倒す同修はとても困惑した様子で、「私だって手を倒したくありません。私も発正念をする時、あの純浄な状態に入静したいのです。しかし、それが出来ないのです。私も発正念の重要性を分かっています、しかし発正念をすれば、意識がはっきりしなくなるのです。私はどうすればいいでしょうか?」と言いました。

 私は、「同修が言ったことは間違っていません。やはり自分があまり重視していないためでしょう。重視していないことには色々な現れがあります。例えば、毎日家庭のことや仕事の事、お子さんのことを考えれば、あなたの集中力が分散してしまいます。あなたの気持ちが他のことに行ってしまえば、法に投入する気持ちは当然少なくなります。もし、あなたが人間の事を放下できたら、頭には法と人を救う事しかなく、そこに座ったら、邪悪を一掃し、人を救う気持ちがいっぱいになれば、手を倒すことはないでしょう。やはり自分の考えが純浄ではないから、座れば妄想をたくましくし、妄想を止めれば、意識がはっきりしなくなり、それなら手を倒してしまうでしょう。問題はやはり修煉にあります。自分が毎日何を考えているかを見てください。何に執着しているかを見つけてください。その執着を取り除き、心をより純正にし、そうすれば正念は強くなり、手も倒すことがなくなるでしょう。手の問題だけを解決するのではありません」と私は補足しました。

 交流中に、私は同修の簡単な心境を理解しよう、また自分の複雑な思考方式を変えようと努力しました。次第に、私は簡単な思考法の素晴らしさを感じるようになり、知識人でも、考え方を簡単にし、実証科学の障害を乗り越え、直接法に同化することができると思いました。

 少しの体得です、適当でない所があれば、ご指摘くださるようお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/6/298588.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/10/18/146444.html)
 
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