漸悟の中で見た長期にわたる病業(十一)
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文/中国の大法弟子 洪願

 【明慧日本2014年10月30日】本文は作者が自分の状態の中で見たもので、あくまでも同修のご参考まで。法を師としてください。(編集部より)

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 十六、大法を実証する重要な仕事を担当して、保険をかけた気になる

 次のような状況が海外にもあります。彼らの心の底には次のような考えが潜んでいます。「私は大法を実証する重要な仕事を担当している。私のこのプロジェクトは多くの人の救い済度に関わっている。私は地元の重要な大法資源に協調している。私は地元の多くの同修の安否に関わっているので、師父は決して私に問題が出ないように守ってくださるでしょう」。このような心はすでにあまりに尊大ではないでしょうか。

 師父は『轉法輪』の中でこう説かれました。「わたしの本を手にして、街を歩きながら、『李先生が守ってくれているから、車なんか怖くない!』と叫ぶ者もいますが、それは大法を破壊しているので、このような人を守るはずがありません。実際、真に修める弟子はこんなことをするはずもありません」

 前述の同修は、『轉法輪』の中で師父が説かれた人と似ていませんか? その心は十分に大きな面倒を招いてしまいます。

 有名な同修が病業で迫害され亡くなった主な原因はここにありました。私が彼を見てみると、やはりこのような心が面倒を招いたので、その心を取り除かずにかえって強化してしまいました。内心では「師父はどうして私にこのような問題が出ることを許したのでしょうか? 許すはずがありません。これは妨害なので、正念を発して滅します。それらは私を迫害する資格がありません!」と思いました。内に向けて探さず、自分を変えない限り、発正念をするとき、それらの邪悪は旧宇宙の理に保護され、取り除くことができないので、仕方なく師父にお願いしました。実は彼が少しでも内に向けて探せば、師父は助けることができ、発正念も作用をするのですが、しかし、彼が内に向けて探すのは口先だけに留まっていました。時間が長くなるうちに、法に対して、「突拍子もないことを説かれ、事実に合わないのではないでしょうか?」という疑いが生じました。

 彼は次のような心をずっと取り除きませんでした。「私はこんなに大きな事を担当しているから、大根器の人のはずです。みんなからもよく修煉ができていると言われているから、間違いなく大根器の人であるはずです」

 彼の学法は表面に留まっていました。師父は『轉法輪』の中で「主要な原因は寺の大和尚、住職、方丈などが必ずしも『大根基』を持つ人とは限らないからです。彼らは方丈や大和尚になっていますが、それは常人社会における職位の一つに過ぎず」、「いま現在、この講習会にも、うぬぼれている人がいて、ものを言う態度まで違います。自分のことをいったいなんだと思っているのですか。佛教においても、このことは強く忌避されているのです。今お話ししたのは『自分の心より魔が生じる』ということで、それはまた心による変化とも呼ばれます」と説かれました。

 この心をまだ取り除いていないのに、更に「私は大根器の人なのに、このような病業さえ乗り越えられず、繰り返しています。この法はそんなに大きな威力がないのかもしれない」という心も生じました。

 これで旧勢力は彼の口実を捕まえました。師父がずっと阻んで、生命を延長しているのが見え、彼に悟る機会を与えておられるので、それらの心を取り除けば、少しでも取り除けば、一つの関を乗り越えることができ、残りは次回に乗り越えればいいようにしてくださるのですが、しかし、彼はますます疑うようになって、口では言いませんが、心の中では文句がありました。最後に、彼の元神が体から離脱したあとも、また機会を与え続けましたが、しかし、彼は消滅しなかった思想業力に妨害されました。ためらっている間に旧勢力は直ちに「無形の放心」で彼を囲み、肉体が完全に死んでから、妨害がやっと終わり、彼は分かるようになりましたが、すべてが遅かったのです。

 十七、病業の虚像を生死の試練とし、周りの人に残るか否かの試練とする

 このような状況は国内外にもあります。海外にはそんなに大きな難がありませんが、中国本土では、主に大きな難を経験していない同修が対象となります。旧勢力の口実はつまり、大きな病業で生死を放下できるか否かを皆に試しています。

 師父は『シンガポール法会での説法』の中で次のように説かれました。「皆さんもご存知のとおり、亡くなった学習者がいます。亡くなった人の中で圓満成就に至った人もいれば、わざと法を壊しに来た人もいます。ですからわたしはこのことについて何の態度も示さないし、何の話もしませんでした。しかしそのことの発生は、われわれの学習者にとっては一つの生死の試練だとわたしは思います。あなた自身に起ることではないが、やはり自分自身に起るようです。あなたは絶対にそういうふうに感じます。それはまさに生と死という瀬戸際の試練です。一人の人が生死を放下できなければ、絶対に圓満成就に至ることはできません」

 時に私から見ると、同修にやってきた病業はそんなに大きくないのですが、表面に現われてくるととても大きく、甚だしきに至っては危機に陥っているようですが、それは即ち虚像です。傍目八目(おかめはちもく)で、もし法理からはっきり悟らなければ、本当に怖がらせてしまいます。

 これは全体への試練でもあります。みんなが正しく悟り、固く信じて動じなければ、間もなく乗り越えることができます。虚像にしても、軽々しく扱ってはなりません。この生死の関の中で、本人自身の向上が皆を引っ張り、皆の向上も彼を引っ張って、全体が内に向けて探し、共に乗り越えなければなりません。

 師父は『轉法輪』の中で「ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、果して高い次元へ修煉していけるだろうか、佛は本当に存在しているのか、などについて、あなた自身が紛らわしく思い、迷ったりすることが起きます。将来、あなたに錯覚を与えて、それらすべてが存在しておらず、みんな偽物だ、とあなたに思わせるようなことも起きるかも知れません。動揺するかどうかを試すのです。絶対動揺しないという決意があり、いざという時に本当に動揺しなければ、あなたはおのずと乗り越えることができます。なぜならあなたの心性がすでに向上しているからです。ところが、今はあなたはまだそれほど安定していないので、すぐにこのような難を出現させたら、あなたはとても悟れず、修煉もまったくできなくなります」と説かれました。

 虚像による試練は、正法修煉の一つの大きな関です。ミラレパ(チベットで修行し悟りを開いた聖者)の修煉物語を考えて見て下さい。彼の師父は自らいろいろな虚像を造り、彼が正しく信じるかどうかを試したのです。

 多くの大法弟子は、繰り返して生死の試練から歩んできて、一回一回自分を成就してきました。そんなに大きな圧力のない環境の下で、旧勢力は病業の虚像によって、皆を繰り返して試練しているのですが、実は全部よいことです。必ず正しく悟り、正しく信じれば、それは即ち正果を悟っているのかもしれません。大道は至簡至易で、無形の中で成就したものがこういうところに表われているのかもしれません。決してこれで法を疑ったりしてはならず、そうすれば旧勢力が隙に乗じてしまうでしょう。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/22/299246.html)
 
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