北京への千里の徒歩の旅
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文/甘粛省の大法弟子 ビンフェン

 【明慧日本2014年11月6日】ワシントンD.C.からマイアミまで、旅をしてみたいと思いませんか? したいと思うでしょう。

 しかし徒歩での旅なら、いかがですか? それは、したくないでしょう。

 私の体験をお話ししましょう。私は中国の西北部に位置する甘粛省から、中国の首都・北京へ千里の徒歩の旅をしました。途中で私はたくさんの苦労をしましたが、同時にたくさんの喜びと奇跡も体験しました。

 私はなぜ、どのようにこれほど長い旅をしたのでしょうか。

 小学三年生のある日、私は教室に座って授業の準備をしていましたが、突然私の右の前方のドアの外から長さ一尺、太さ一寸ほどの皮付きの木の棒が飛んで入り、私がまだ反応しないうちに「パターン」と私の頭に当たってから、地面に落ちました。頭を触ってみましたが、痛くなかったのです。私は慌ててその木の棒を探してみましたが、ありませんでした。外には人がおらず、私の周りにいた子供たちはみな遊びに夢中で、まるで何も起きていなかったかのようでした。実際、私は小さい頃から他空間のものが見え、聞こえました。

 しかし、これらは私の生活を容易にしてはくれませんでした。私は骨盤と足の骨に深刻な問題を抱えていました。あまりの痛みに私は冗談で、自分は骨まで悪くなったと言いました。私は手術を受け、また気功治療で症状を和らげようと思いましたが、みな効き目はありませんでした。

 そんなある日、私は法輪功の奇跡的な治療効果と、どうやって人の性格と心性を改善したかの文章が載っている雑誌を読みました。そして、私は修煉をはじめました。すぐに私は体内の劇的な変化と、細胞まで変わることを感じ取りました。

 しかし、私の喜びは長く続きませんでした。数カ月後の1999年7.20、中国共産党は法輪功を禁止しました。人を苦しめる悪徳な宣伝に、私は巨大な圧力を感じました。

 中国で、人々は問題を解決するために、陳情オフィスを訪れます。私は北京へ行き、法輪功のために陳情することを決めました。私は多くの法輪功学習者が同じ理由で北京へ向かっていくのを目にしました。

 私はすぐに北京へ行こうとしましたが、お金を持っていませんでした。

 お金がなくても、私は北京へ行きたかったのです。そして、私は歩いて行くことにしました。他の学習者は私を励ましてくれました。「堅い意志を持って、歩いて行きなさい。足に傷を負っても放棄しないでください」と言ってくれました。

 また2人の修煉者が一緒に行くと言ってくれました。

 私の両親は私に家を離れさせたくありませんでした。彼らは私が政府と揉め事をしてほしくなかったのです。私は窮地に陥りました。彼らに心配をかけたくない一方、法輪功に対する誹謗中傷の宣伝に直面して、法輪大法のために、声を出したかったのです。

 法輪功を修煉しない姉が新しい靴を買ってきました。「この靴を履けば、あなたの足は痛くないでしょう」と彼女は言いました。これは、もう行くべきだという強いヒントでした。

 私が出発しようとするのを見て、母は涙を流しながら、私に行かないように頼みました。

 「私はずっと昔に誓約を立てました。私は今生苦難をなめ尽くしましたが、師父は私を救ってくださいました。私は困難を避けて通ることができません。私は自分の誓約を実現しないといけません。大法のためなら、命を捨てても構いません」と私は母に穏やかに伝えました。

 師父は「人間はひとたび真理と生命の存在の真の意義を知るようになれば、そのために命を捨てても惜しくはない」[1]と説かれました。

 旅がはじまる

 2000年7月のある早朝、私は家を離れました。家から出た時、私は自分がすべてを放棄できたと感じました。

 私はすぐに問題にぶつかりました。庭の大門がロックされていたのです。「師父、私を助けてください」と私は心で師父にお願いしました。

 私は全身の力を使って、塀に這い上がり、ジャンプして外に降りました。父が後ろで私に帰ってくるよう叫んでいるのが聞こえました。彼の方に戻って行ったら、私の旅は続かなかったはずです。

 私は同行する同修に会いました。1人はおばさん、もうひとりは私が姉さんと呼んでいる同修でした。

 はじめの日は私にとって、本当に一つの試練でした。とても暑い日でずいぶん歩きましたが水を飲むところも、休むところもなかったのです。私は喉が渇き、ずっと汗をかいていましたが、一日中食べることも、飲むこともできなかったのです。夕暮れになると、私の両脚はまるで、2本の木で作ったポストのようになりました。

 脚が私を前へと動かすのではなく、私が脚を引っ張りました。

 「先に行ってください。みなさんの足を引っ張りたくありません。後で、追いつきます」と、私は疲れた声でおばさんと姉さんに話しました。

 「それはだめです。続けて一緒に行きましょう」とおばさんはきっぱり言いました。彼女は私の腕を掴んで、私を前へと引っ張りました。私達は夜の間歩きました。私の服はずっと濡れていて、夜の風でも乾きませんでした。ついに私は動けなくなりました。まるで全身のエネルギーを使い切ったようでした。

 朝の日光が空を照らす時、私達は小さな市場に着きました。おばさんは私にトマトを二つ買ってくれました。瑞々しいトマトを食べながら、私は「これで生き返った」と思いました。

 数日後、私達はおばさんと姉さんの故郷に着きました。私達は彼女らの親戚の家に泊まりました。翌日、そこにおばさんの息子と姉さんの夫が現れました。彼らは彼女らが家を出てきたことを非難し、家に帰るよう求めました。

 私達は夜になってから出発することにしました。私はおばさんと同じ部屋に泊まっていましたが、夢の中で、姉さんが「ビンフェン、早く起きなさい」というのが聞こえました。彼女は数十メートル離れたところにいました。暗い中、彼女だけがはっきりと見えました。

 時計をみると、朝3時過ぎでした。私はおばさんを起こし、私達は静かに部屋から出て行きました。私達は庭の塀に登り、外に飛び降りようとしました。しかし、飛び降りるとき、私は腰を痛めてしまいました。おばさんが安全に降りられるように、私は電柱を見つけてあげました。私たちは姉さんに会い、一緒に走り始めました。

 しかし、姉さんの夫に気づかれ、追いつかれてしまいました。私達は帰るしかありませんでした。腰の痛みは私の全身に広がりました。

 「姉さんと私はもう行けない。しかし、あなたのことが本当に気になります。私達と一緒にまず家に帰ってから、改めて出発したほうがいいかもね。どう?」とおばさんが私に聞きました。

 私は決めました。「心配しないでください。私は一人で行きます」 

 姉さんと一緒に行く

 私は北京へと続く線路に沿って歩きました。私は早く歩きたかったのですが、腰の痛みが酷くて、猫背になって歩きました。どのくらい歩いたか覚えていないのですが、もう痛みに耐えられなくなった時、私は足を止め、休みました。しかし、座ろうとすると更に苦しく、息をすることさえ難しく感じ、立っているしかなかったのです。

 私は「ビンフェン、はやく」と誰かが私を叫んでいるのを聞きました。車が一台止まりましたが、姉さんが私に手を振っていました。私は以前、夢でこの光景を見たことがありました。師父が私にヒントを与えてくださっていました。私は急に泣き出し腰の痛みを忘れ、姉さんに向かって走って行きました。

 私は車に乗りました。姉さんは私が1人で歩いていくことが心配になったと教えてくれました。彼女はひそかに家を去り、私を探すために、車を借りました。彼女は私がどこにいるかわかりませんでした。奇跡的に、彼女が車の窓から外を見ている時、私が線路に沿って歩いているのが見えたということでした。

 なんという偶然でしょうか。たくさんのことが一致しないといけません。線路と一般道路が近くなければならず、姉さんが反対側を見ていたらだめで、私が座っていたり、私が少し早く、あるいは遅く歩いていたらだめでした。私達に対する師父の加護は言葉では表せないものでした。

 私達は2人ともお金をあまり多く持っていませんでした。そして、私達は運転手に費用を支払い、歩くことにしました。

 汗が私の髪の毛から滴り、塩の痕が顔に残りました。私の洋服はずぶ濡れになりました。

 卵サイズの石ころが私たちが歩く、線路の小道に敷かれていました。私の靴はそれらに破られ、つま先の爪も破られました。時には私はお腹の中の食物が石に感じられました。

 毎朝、起きて立つ度に私は足の筋が切られたように痛くなりました。足を引きずりながら、前へと進みました。こうして十数分歩くと、少し楽になりましたが、座るとまた足は痛くなりました。時には腰が痛くなって、横たわるしかありませんでしたが、身体を動かすことはできませんでした。

 私達の条件は恐ろしいほど厳しかったのです。しかし師父はその状況の中で、私の安逸を求める欲望をなくしてくださいました。私はそれほど清潔を気にかけることがなくなり、どこでも寝られるようになり、異常な高温と飢餓、悪臭にも耐えられるようになりました。寝る時は、蟻、虫、鼠が至る所で走り回っていても、私は邪魔されなかったのです。汽車が大きな音を出しながら走っても、私は影響されませんでした。

 疲れ切ると私達は法を勉強しました。痛みがやってくると、同修からの励ましの言葉を思い出しました。「堅い意志を持って、歩いて行きなさい。足に傷を負っても放棄しないでください」

 私は自分に言い聞かせました。「痛みがどれほど酷くても、私はそれを気にしない」と。少しずつ、私がその痛みを感じ取ることをやめたら、私の足はどんどん速くなりました。私は足がないように感じられ、まるで飛ぶような感じでした。

 私達を待っていた奇跡

 ある日、私達は日が暮れるまで歩き、大きい円錐台型のプラットフォームに着きました。暗い中、私達は手で探りながら、歩いていました。姉さんの手がビニール袋に触れました。中には、まだ暖かい、丸い餅が入っていました。そこらは農村部で、一日歩いても一人も会えない偏僻なところでした。私達は「これは師父からだ」と感謝の涙を流しながら、その餅を食べました。

 私は食べ物について心配したことがありませんでした。歩いていると、常に道のそばにスイカや、まだ包装を開けていないパンがありました。私はあまり多く食べなかったのですが、お腹が空いていると感じたことはありませんでした。

 ある寒い夜、私は夢の中で、誰かが私に洋服をかけてくれるのを見ました。私はすぐに暖かくなりました。

 翌日、私は突然餡の入ったものが食べたくなったのです。お昼ごろにある村に着きました。

 一人の優しい女性が大きなセイロに入った餡入りの蒸しパンを持ってきてくださいました。子供が蒸しパンを作る練習のために作ったそうです。「あなた達はここに座って食べてください。残りはすべて持って行ってください」と言いました。

 そして彼女は私達に洋服を数枚くれました。「寒くなっています。あなたたちは服を十分持っていないですね」と言ってくれました。師父は私の昨日の夢を実現してくださいました。

 私は常に雲のような物質が私の胸を満たすのを感じました。それはすばらしいことでした。腰と足の痛みは、師父が私の身体を浄化してくださっていると分かりました。

 山西省太原市の駅に着いた時、従業員が私達にどこから来たのかと聞きました。私達は甘粛省からずっと歩いて来たと答えました。彼女はショックのあまり、「ありえない!」と言いました。「それが本当なら、あなたの靴はとっくに壊れてしまったはずです」と言いました。

 途中で私達は20代の2人の青年に会いました。彼らは私達のものを奪おうとして後ろを歩き、ある橋の下で私達を呼び止めました。彼らに、「私達はお金を持っておらず、歩いて北京に向かっている」と伝えました。彼らは私達のカバンをチェックしましたが、法輪功の書籍『轉法輪』以外は何もなかったのです。彼らは私達と一緒に歩きました。

 一緒に歩くとき、私達は彼らに修煉について、因果応報の法則について教え、自業自得を伝えました。私達は彼らに仕事を探して、善良な人になるよう励ましました。彼らは喜び、ソフトドリンクを買ってくれました。次の駅で彼らは疲れきってベンチで寝込みました。私達は引き続き歩きました。

 北京へ到着

 40日歩いて、私達は北京の天安門広場に着きました。女性の警官から私達は法輪功修煉者かと聞かれましたが、彼女に答えず続いて歩きました。彼女は手を振って、車を呼んできました。数人の警官が車から降りてきて、私達を車内に引っ張り入れました。

 私達は派出所に連れて行かれました。2人の警官が私達を尋問し、罵りました。私達から何も得られなかった彼らは去って行きました。

 ひとりの修煉者が連れて来られました。私達が甘粛省から歩いて来たと聞いた彼女は、500人民元を渡してくれました。「あなたたちのような修煉者が北京に来ると思っていました。私はあなた達を探してお金を渡すために来ました。もらってください」と言いました。

 私は歩いて帰ろうとしていたため、それをもらいたくなかったのですが、警官が来て、彼女を連れ去る前に、彼女はお金を姉さんのポケットに入れてくれました。師父は私の帰るお金を用意してくださったのです。

 姉さんと私は北京にある山東省連絡オフィスに連れて行かれました。私たちは別々に監禁されました。2人の接客係が、私がどこから来たかを聞き出すために送られてきました。私は彼女らに、私がどのように法輪功の修煉を始めたか、法輪功はいかに私の観念を変えたか、中国共産党(以下、中共)はいかに法輪功修煉者を迫害したかを伝えました。

 「私達修煉者は真・善・忍を修煉します。あなた達が何を求めているか知っています。私があなた達に私の住所を教えたら、あなた達は悪い人を手伝ってしまい、あなた達に本当に害をもたらします」

 彼女らはしばらく何も言いませんでした。そして、その中の1人が「あなたは真に修める修煉者ですか」と聞いて来ました。

 私は真面目に頷きました。

 「私はあなたを信じます」と彼女は言いました。1人の法輪功修煉者が彼女に、「真に修煉する人に食物をあげたら、功徳無量になる」と教えてくれたと言いました。しばらくして、彼女は蒸しパンと料理を持ってきました。

 数時間後、私は釈放されました。姉さんがどこにいるかと聞いたら、教えてくれませんでした。街に出た私は姉さんが心配で、当てもなくぶらつきました。突然、「ビンフェン!」と私を呼ぶ人がいました。まさに姉さんが通りの反対側にいました。北京のように大きな都市で、たくさんの人が歩いているなか、長い時間別れていたのに、私達がこうやって再会できるとは信じられませんでした。

 私の修煉の道のり

 一度夢のなかで私は山道に沿って、歩いて降りて来ていました。小さい溝まで歩くとジャンプして渡りました。私が振り返って見るとその溝は底の見えないほど深い溝でした。

 それが私の旅でした。当時は簡単なことのように現れたのかもしれませんが、実際は乗り越えないといけない大きな挑戦と障害物でした。師父はこれらのすべてを解決してくださいました。

 この旅を通じて、師父はすべてを按排してくださったとわかってきました。私達の修煉の道は実はすでに用意されています。私達はただそこを歩くだけです。時には続けて前へ進むことが不可能であるように見えるかもしれませんが、師父は『轉法輪』で「柳暗花明又一村」と説かれています。困難な部分を通り抜ければ、柳の影と花の明かりの向こうに村が現れたようにその道が見えてきます。 

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨二』「わたしの感想」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles298277.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/10/12/146353.html)
 
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