師父の新経文を拝読して、師と法を敬う事について考える
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年11月26日】私が初めて師父の新経文『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』を拝読したのは、明慧ネット上でした。私はまるで会場にいて師父の説法を拝聴しているように、心身ともに慈悲の雰囲気に囲まれ、静かに拝読していました。突然、「個人の商売は、あなたが言った範疇に入りますか」(原文:个人生意属不属于你说的范围?)という質問を見ました。それを見た私はあきれて物が言えなくなりました。ここでは、なぜ「你」(あなた)を使って、「您」(あなたの尊敬語)ではないのでしょうか?

 私はその一行に目を留め、繰り返して何度も読み、涙が静かにこぼれて来ました。私は驚きとつらく悲しい気持ちでいっぱいでした。つらく悲しく感じたのは私たちが師父に対して失礼をしたこと、驚いたのは大法弟子としての口調の傲慢さでした。質問したのは新しい学習者かもしれないし、あるいは、西洋人弟子の言葉を翻訳することによって相違を生じたかもしれません。しかし、私に読ませたのは偶然ではないはずです。

 たった1つの文字ですが、私は多くのことを考えさせられました。中国大陸では共産党の党文化に毒害され、人々は思い上がってうぬぼれ、偉そうに振舞っています。学習者の中でも、師と法に敬意を十分に払っていない現象は決して少なくありません。一部の学習者の物の言い方と立ち居振る舞いには、謙遜さと丁寧さが足りません。

 もう一つよく見られるのは、同修が大法の書籍を勝手に置いたり、法を習い終わると、本をうつ伏せにしたり、あるいは眼鏡を本の上に置いたりすることです。『転法輪』が古くなると、もう一冊を寄越して、数冊を持つ人もいます。今はどこの資料拠点でも、本を製作する条件と能力が備えていますので、新しいものを好む気持ちにかられ、皆は次々と資料拠点に新しく印刷した合本を注文しています。理由は新しい説法がないとのことです。実は新しい学習者を除けば、私達の地区の古い学習者は、ほとんど1篇も欠かせず全ての経文を持っているはずです。これらの印刷した単行本はもう読めないのでしょうか。大法にこんなに敬意を持たないことに対して、時々、私は返答に窮します。このように本が欲しいと言われる時、私は「私達のところでは、誰も足りているはずです。私のところでは大法の書籍を作りません」ときっぱりと断ります。しかし、新しい学習者、あるいは確かに必要としている場合、私はしっかり提供いたします。

 同修が見破れた本、あるいは古くなった単行本(説法と経文)を私に返す時、私はいつも、法を得た当時、私は最初に入手した、同修がくれた手書きの本を思い出します。ある日、一ページ目に、友たちが不注意で水を垂らしてしまいました。私は慎重にもう一枚を書き直してそれに綴じました。その本には誤字や脱字が多くありましたが、しかし当時、私はそれをこの上ない宝と見なしていました。なぜなら、私は「手で書き写した本は、印刷した本と同様に、法の威力があるのです」[1]と十分に知っていたからです。

 今、多くの同修は、自らも含めて、それほど大切にしなくなりました。今、大法の本を簡単に手に入れ、しかも自分も製本ができるのです。考えて見てください。皆さんは大法の本が欲しいと執着していて、実は新しい本そのものを好んでおり、法の貴重さあるいは法に対する大切な気持ちを意識していないかもしれません。昔、小道で修煉する人は一生をかけて、あれこれ探り、求め、機会を誤らせることをひどく恐れていました。本日、大法は世間で広く伝えられ、私たちは様々な人心をいまだに取り除いておらず、しかも重視もしません。くれぐれも神聖な機縁を逃さないようにしましょう。さもなければ、私たちは本当に後になって悔やむしかありません。

 私達は本当に師父を敬重しましょう。大法を大切にしましょう!

 不適切なところがあれば、同修からのご指摘をよろしくお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「手で書き写した経文の扱い」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/6/299927.html)
 
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