常人の忍耐力から自分の修煉状態をみる
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 【明慧日本2014年11月27日】数日前、私は携帯電話で大法が迫害されている真相を伝えるために町に行きました。その日は天気がよく変わり、雨が降ったり止んだりしていました。雨宿りのため、私は川辺の空き部屋(河を管理するための小屋、住む人がなく、鍵もかかっていない)に入りました。窓から外の様子をみると、川辺でレインコートを着て魚を釣っている人が見えました。私は空き部屋の中で真相を伝える電話をかけました、しかし、しばらくすると、安逸心が生じて、電話をかける気がなくなりました。その時、空模様はどうなっているだろうと思い、外を見てみると、大雨の中で、あの魚釣りの人はまだじっとしていました。私はこの人は本当に忍耐強いと敬服しました。

 常人でさえ、自分の趣味のために、こんなに頑張っているのです。私は大法弟子で、最も神聖な大法が作り上げた生命です。人を救い済度するために、どうしてこの苦に耐えることができないのでしょうか? 常人でも、魚を釣るために、風雨の中に何時間も立っていられます。それでも、彼は苦を感じてはいませんでした。私は1、2時間しか過ぎていないのに、すぐ疲れを感じ、あきらめてしまいます。この状態は常人より劣っています。師父の法身はずっと私の周りにおられ、きっと私のことを「意気地がない弟子」だと思っておられるでしょう。
 
 帰ってから、私は内に向かって探しました。時に、自分の心理状態が正しくなかったり、心性が高くなかったり、また学法の時、集中しなかったりしますし、法に従って自分の言動を照らしていないことがよくあります。つまり私は師父の要求に従っていませんし、多くの人を救い済度することを重視していません。そしていい加減に大法のプロジェクトを済ませようという気持ちがたびたびあります。責任を負う事を避けるような極端な状態もあります。私は修煉の機縁も大切にせず、法を正す中で、師父か延長してくださった毎日を無駄にしていました。
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/5/30/274669.html)
 
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