協調人を見る心を放下する
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2014年12月25日】プロジェクトについて、私と協調人はそれぞれのやり方がありました、彼は私と話をするとき、口調がとてもきつく、トラブルがずっと絶えませんでした。私はずっと我慢していましたが、根本的に放下しておらず、マイナスの考えすらありました。彼と会った時、彼は何の挨拶もせず、私は自分の心性を守れなくなりました。心の中で、彼を恨んだり、昔のことを、ほじくり返したりしていました。

 ある時、私は次の法を読みました。「神: これらの問題はすでに非常に深刻になっていますが、彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」[1]

 今まで、私はずっと外に向かって探しており、内に向けて探したことがありませんでした。「問題があったときに内に向けて探すことは、大法弟子と常人との根本的な違いなのです」[2] 内に向けて探すことは、師父から授かった宝物であり、私は同修の不足を見て、自分を法に照らした時に、すべてのトラブルが解決したことに気づきました。同修も前とまったく違うように見えました。

 私は自分に強烈な嫉妬心があると気づきました。協調人は能力があり、ほとんどのことをうまく行うことが出来ます。しかし、自分の執着に拘る時、同修のいいところを全く見つけることが出来ませんでした。

 師父は「今日では労働模範をつとめるのも辛いもので、『君は労働模範だから優秀だ。君のような人は、朝早くから夜遅くまで働くべきなので、この仕事は全部君に任せたよ。君は良くできて、俺たちはどうせ駄目だから』と、あてこすりをされますので、良い人になるのも辛いものです」[3]と説かれました。よく考えてみれば、私の行ってきたことはそれと全く同じです。嫉妬なのです。彼がよくできると、私は嫉妬します。この点に関して、私はまだまだです。

 それから、私は自分の観念を変えることにしました。時には、彼はたくさんのことを段取りしますが、足りないところもあります。たとえば、彼は同修の修煉状態をゆるがせにしたことがあります。その時、私が彼と協力して、お互いの不足を補うことは、師父の按排であり、師父が望んでおられることだと思います。そのようにして、彼は大法の活動を取り計らい、私は同修の修煉状に気を留めるようになりました。観念を変えると、私の協調人に対する執着心は、放下できるようになったと気づきました。

 注:
 [1] 李洪志
師父の経文:『精進要旨』「時間との対話」
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「大法山東輔導站へ」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/21/296150.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/9/1/2789.html)
 
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