同修間の付き合いに 多くの時間と精力を使わないように
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年12月25日】私たちの法門は常人の中で修煉しています、大法は私たちに、最大限に常人社会の形式に符合するように要求していますが、これは私たちが常人と同じようにするという意味ではありません。もちろん、修煉の基準を下げるのではなく、私たちは法に則って自分を高く律して衆生を救い済度しなければなりません。

 しかし、多くの学習者は、お互いに法に従って向上するのではなく、長期に人との付き合いに追われて、物事の良し悪しや、誰がよい人か誰が悪い人かについて、常人のように右往左往しています。神聖な修煉環境が、だんだん常人のようになり、純粋でなくなりました。

 数年来、一部の学習者の中に、表と裏がなく、内と外がなく、正しさと誤りがなく、むやみに「優しく接し」、「寛容になる」現象が見られることを、私は非常に心配しています。修煉すればするほど、人間としての最も基本的な常識さえ分からなくなりました。これは修煉でしょうか? このような人は大法の中に入りましたが、大法の中にいないのです。しかも、このような人が活躍できる場所を得て、大法弟子の善良さを利用し、大法の中でいい加減にしました。これは修煉者でしょうか?

 実は、みな人間社会の中で修煉しています。家族や周囲の人のことを考えて、適度な付き合いは必要だと思います。しかし、学習者にとって、多くの時間と精力を人との付き合いに使い、自分のことを常人とみなせば、常人に流されることになり、そうなると、自分の修煉状態と衆生を救い済度する使命まで影響されます。私たちは相手の問題に気づいた場合、直ちに善意をもって指摘すれば、同修は法の中で正されます。これが本当の善であり、同修に対して、法に対して、修煉環境に対する責任でもあります。

 これは現段階の私の次元での認識です。お互いに注意を払い、ともに向上しましょう。不足な点は、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/2/230368.html)
 
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