根本的な執着を放下し 真に自分を修める
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文/遼寧省の大法弟子 敬信

 【明慧日本2014年12月27日】私は1996年に修煉を始めた古い大法弟子です。困難な修煉の道を十数年歩んできて、今になって初めて長年の間、自分が真に修煉してこなかったことに気づきました。人間の執着を抱き、人間の特徴を保護し、根本から自分を変えませんでした。毎日学法し、毎日煉功し、発正念真相を伝えることも毎日行っていますので、自分は良く修めていると思っていました。

 しかし、酷くなった虚像の病業により私は病院の救急に運ばれて、初めて自分の修煉に問題があることを認識しました。問題はどこにあるのか、何が問題なのか、いくら考えても分かりませんでした。私は一生懸命に内に向けて探し、同修も私を助けてくれましたが、いくら探しても表面的な人心ばかりで、肝心な所は見つかっていないような気がしました。私は困惑し、悩みました。強いて言えば悔しささえ感じました。根本的な執着は放下しておらず、観念の転換もできず、虚像の病業はなかなかなくならず、体がしんどく、心が一層苦しかったのです。その苦しみは自分の問題が見つからない所にありました。

 数日前、私は眠りに入るか入らないかの境目に、目の前に人のすね程の太さの竹が見えました。私はこれは師父による啓示だと瞬時に思いました。それがまさに私の根本的執着です。しかし、それは一体何でしょう? 私は竹の皮を一層一層剥がすように、現象から本質を探すように皮を剥がしていきました。

 例えば、毎日ネットを閲覧する時、私は予言に特に興味を持ち、「定の中で見たもの」「大淘汰」といった文章をよく見ます。これは私の時間に対する執着を表しています。潜在意識の中で、法が人間社会を正す日が早く来るよう願っています。その表れとしては、苦を嘗めたくなく、怠けて、物事を中途半端に処理してしまいます。また、トラブルに遭った際、修煉者の風格がなく、闘争心、怨みの心が多く、全く常人が問題を処理する際の状態そのものです。そして、問題に遭った際に出てくる初めの念は必ず人間の念です。時々すぐに気づきますが、時には事が行き詰まって壁にぶつかってから分かります。これらを考えると、恥ずかしくてなりません。十数年修煉してきて、「真・善・忍」をどれくらい実行できたでしょうか? 人間の私利私欲の観念をどれくらい変えたでしょうか? 多くの年月の中で私は真に自分を修めませんでした。観念を改めず、根本的執着を放下せず、それなら以前やってきたことは結局人心を持ってやったことに過ぎないではありませんか? 故に学法しても法理を悟れず、煉功しても病気を治すことができず、発正念をしても効果があまり見られず、真相を伝えても人をきちんと救えず、いつも遺憾を残すばかりでした。この時、私は突然悟りました。師尊が私たちに出て来るようにとおっしゃっているのは、表に出て人々に真相を伝えるだけでなく、人間から出て来るように、人間の表面を突破し、人心を取り除き、観念を改め、執着を放下して、初めて真に修煉することになるのだと思います。

 ここまで考え、私は心身ともに震えを感じ、今後何をすべきか、どう修めるべきかが分かり、今まで心にあった苦しい感じがなくなりました。反対に、幸せ、興奮、感謝、喜びを実感しました。本当に観念が変わり、人心を取り除けば、心性が向上します。以前私が怨んでいた人達に対する怨みが消えて、逆に慈悲とお詫びの気持ちで胸が一杯です。発正念の時、私は彼らの空間場に向かって、彼らの元神に、「ごめんなさい」と言いました。そして、私に心性の向上のチャンスを提供してくれたことに感謝の意も示しました。もっと不思議なのは、長い間私を悩ませていた心臓の衰えという虚像も心性の向上に伴ってきれいに消えました。

 ここで、私は未だ虚像の病業に悩まされている同修たちに一言言いたいです。旧勢力による迫害を否定し、師父が按排して下さった修煉の道を迷いなく歩む事を土台にして、必ず内に向けて探し、深く掘り下げ、観念を改め、人心を取り除き、根本的な執着を放下し、初めて圓満成就できます。その時は本当に、「柳暗花明又一村」(『轉法輪』)というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/12/23/301723.html)
 
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